脳は衰えない(3)

 60歳で定年になって、幸い、それまで勤めた会社に再雇用されたとしても、現役時代のようなライフスタイルは続けられない。仕事的、経済的、時間的にもボリュームダウンし、身体への負荷は格段に減少するものの、組織との関係が半分つながっていることもあって、極めて微妙な存在であることを認めざるを得ない。 肉体的にはまだ、老人と呼ぶには早過ぎ、何とも中途半端な時期である。前期高齢者の仲間入りをできるのも65歳からだし、ましてや本物の老人である後期高齢者は75歳にならないとなれない。前期高齢者になれば、毎月、年金が支給されるとはいうものの、それは細々としたもので、生活が拡大するわけではない。

年相応の服装、年相応の趣味、年相応の生活を余儀なくされると考えれば、こんなつまらないことはない。生活にワクワク、ドキドキもなく、あとは淡々粛々、質素かつ地味に、ひたすら死を待ちながら生きていくのみ。やりたいことも我慢し、時間の経過に身を任すのは楽そうに見えるが、退屈極まりない。死にたくなるほど、退屈だ。

おまけに、記憶力の衰えや体力の低下を身をもって実感させられるのだから、「自分は年だ」「もう若くない」「おとなしくする以外ない」と考えるのは自然の成り行きだ。悔しいけれど、これが現実の姿だ。これからは一段と脳も衰えるし、何をやっても、無駄ではないか。そう思っていた。

しかし、「脳はいくつになっても衰えない」となると話は別だ。衰えないばかりか、60代、70代でも鍛えれば、どんどん発達するというのならば、チャレンジしない理由はない。やりたいことがあるのなら、なおさらだ。人生をあきらめることはない。もちろん、今までと同じやり方をする必要もない。新しいスタイルでやればよいだけだ。

「生涯現役」のワーク・スタイルを標榜していても、それはあくまで生活を細々と維持するためで、60代、70代の人生を飛躍させようとは考えないのが普通だ。資金的な裏づけがないことも行動にブレーキを掛けている。収入増の要因がない限り、冒険的な行動には出られないものだ。縮小均衡路線でいくしかない。

しかし、脳が死ぬまで発達することができるのならば、考え方を変えてもいいように思う。「もう社会人としての役割を終えた」と家に引っ込んで縮小均衡生活に入る必要もなくなる。長くかけて積み上げた蓄積を基に、海馬の機能を使って、新しいアイデアを生み出せばよいのではないか。

年を取ったからと言って、「現役を引退する」必要は全くない。「実務者」ではなくなるが、社会に知恵を生かしていく「伝達者」として、新たな役割を担うことができる。人間の脳も人間が生涯現役を担えるよう、進化・発達できるようできているという。

進化・発達する脳を手に入れ、生涯現役を目指すためには、新たな学習や肉体維持のための運動継続など地道な努力が求められる。しかし、そのくらいの努力で退屈な「ポスト定年」から脱出できるのならば、トライしてみても損ではあるまい。そう考えただけで、何だか老人を生きていくのが楽しくなった。

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