横田基地第5ゲート

 夢というのは見続ければ必ずや実現すると確信しているが、問題は見続けることが意外と難しいことだ。見続けるのを邪魔する雑事・雑念が雲霞の如く襲来し、足を引っ張るからだ。見続けることさえできれば実現するものを、うかつにも途中でつい投げ出してしまうからだ。しかし見続けてこそ、夢だと思う。

 52歳でマクドナルドを創業したレイ・クロックの言葉にはいつも勇気付けられる。

やり遂げろ!この世界で継続ほど価値のあるものはない。
才能は違う―才能があっても失敗している人はたくさんいる。
天才も違う―恵まれなかった天才はことわざになるほどこの世界にいる。
教育も違う―世界には教育を受けた落伍者があふれている。
信念と継続だけが全能である。

 少年時代から空への憧れを夢に見続けた知人がパイロットになる夢を実現したものの、病魔に襲われ、天国に旅立った。享年61歳。私と同年、同時代を生きた人だった。高校卒業後に自衛隊に入隊。夢を実現するため米国に渡り、マイアミのパイロット養成学校に入学して操縦士の免許を取得した。

 帰国後は大手航空会社に属さず、小規模な航空会社で遊覧飛行など業務用操縦士として活躍。病に倒れるまでは会社経営にタッチする一方、自分でも国内外の空で小型機の操縦桿を握り続けた。パイロットという職業は極度の緊張を強いられ、ストレスの多い仕事にちがいない。

 骨髄性白血病を発症したのは昨年1月ごろ。5人のドナーから献血を受けた骨髄移植手術は成功し、一時快方に向っていると聞いていた。本人も「3月職場復帰」を目指してリハビリに精出していた。しかし、今年に入って病状が急変し、3月14日夜、遂に帰らぬ人となった。

 葬儀の行われた式場祭壇の横には、渡米する際、飛行機のタラップに乗る前に父親と一緒に撮った写真やパイロット時代の飛行記録ノート、操縦士の制服、家族との写真、一緒に腕に抱えて海を渡り訓練の合間に吹いたトランペットとその譜面など思い出の品が置かれていた。

 米軍横田基地のすぐ近くにある彼の自宅を一度訪れたことがある。年に一度基地で開催される友好祭のイベントを覗いたときだ。10年以上前のことだ。真夏の暑い日だった。庭の桜はもう1-2週間もすれば、主の不在を知らないまま、見事な花を咲かせることだろう。

 「大手航空会社に所属することなく、1人のパイロットして操縦することにこだわり続けた彼のような生き方は、空を飛ぶことを目指す人間にとっては理想的な姿だと思う」-マイアミで一緒に訓練を受け、今は大手エアラインのパイロットをしている故人の友人は静かに語った。

 こどもは親の背中を見て育つという。残された3人のこどもは、それぞれの夢に挑戦している。1人は既に夢を実現し、残る2人もひたむきに夢を追い続けている。まるで、故人が夢を追い掛けたように。合掌。


                (横田基地の隣りを走る国道16号)

 横田基地(横田飛行場):東京都の多摩地域5市1町(立川市、昭島市、福生市、武蔵村山市、羽村市、瑞穂町)にまたがる米空軍基地。主に輸送基地として利用されている。滑走路1本(3350m)。日米両政府は2006年10月、米軍が管制権を持つ「横田空域」の約2割を日本側に返還する交渉で合意し、民間航空機の運航障害が大幅に緩和された。

 東京都は首都圏の空港機能整備の一環として、横田飛行場を民間航空との共同飛行場として有効活用することを米政府に提案。今年1月と3月には小型機の空中衝突防止会議に出席する形で民間機が横田飛行場に着陸した。国内米軍基地では既に三沢基地(青森県)が民間航空利用されている。
 

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