東日本M9.0地震

 いやはや怖かった。62年とそれなりに長い時間を生きてきたが、こんな地震は初めてだ。揺れの大きさはもちろんだが、この揺れがなかなか収まらないのだ。やっと収まったと思ったら、次の余震がやってきて、また身体が硬直。さらに3度目も襲ってきた。

①14時46分ごろ 三陸沖      M9.0 宮城県栗原市で震度7
②15時06分ごろ 三陸沖      M7.0 青森県八戸市で震度5弱
③15時15分ごろ 茨城県沖     M7.4  茨城県鉾田市で震度6弱

  30分間に3度。怖いはずだ。身体がその怖さを覚えている。その後も小きざみな余震が続いた。私は東京銀座の13階建てビルの7階にある職場をちょうど離れ、同じフロアの別室でVDT眼科検診を受けている最中だった。検査が終わって最後に医師と問診中に大きな揺れが来た。それが5分間も続いた。フロアのあちこちで、棚から落ちた書類などが散乱。400キロも離れた東京でさえこんな状態だったのだから、現地の揺れや恐怖は想像を絶するものがあったに違いない。

 外出先の家人と公衆電話で連絡が付いてからも余震は断続的に続いた。職場で待機したものの、あまりに頻繁なので遂にたまらず非常階段を使って外に出た。路上には人があふれ、どの顔にも恐怖の跡がこびりついているように思えた。

 丸の内の東京會舘のラウンジにいた家人によると、道路に駐車していた車が大きく揺れ動くのを目撃したという。電車は全面ストップ、高田馬場の友人宅まで3時間かけて歩き宿泊。私は都営大江戸線築地市場駅で電車が動かないことを確認したのち、いったん職場に戻った。銀座中学のグラウンドそばで見たのがカワヅサクラとミモザ。後方は汐留高層ビル群。最上階がレストランになっているところが多く、恐らく食器は粉々に割れ飛び、営業どころではなかったはずだ。

 都営地下鉄運転再開が午後8時半ごろ。それを待って同9時すぎに職場を離れ、通常の倍の時間をかけて帰宅した。自宅の食器棚から一部食器が飛び出し割れていたほか、最もひどかったのは自分の3畳の書斎。積み上げていた本の山は崩れ、本棚からファイルやノートなどが落下して床に散乱。プリンターも置台の上から崩れた本の上に転落していた。でも、このくらいで済んで良しとしなければなるまい。

 三陸沖からかなり離れた長野県北部では12日午前3時59分ごろと午前4時30分ごろにそれぞれ震度6強(M6.7)と震度6弱、午前4時ごろには新潟県中越地方でM6.6の地震が発生した。巨大地震が誘発したとの見方もされている。

 これを書き続けている今は12日午後10時30分。地震発生から30時間以上経過したが、なかなか揺れが無くならない。ちょっと忘れたころにまた揺れると、次はいつまた揺れるのか身体が身構えてしまう。それだけで疲れが身に回る。午後11時を過ぎても緊急地震速報が流れ、実際に揺れが発生している。

 それでも東京電力福島第1原子力発電所と同第2発電所の炉心溶融をめぐる最悪の事態は回避できる見通しでホッとしたものの、被災地の実態が明らかになるに従って、三陸海岸の目を覆わんばかりの惨状は深刻化するばかりだ。被災者の窮状を思うと今は言葉もない。

 過去の巨大地震関連記事

■2011年3月9日「長周期地震動」体験
■2010年2月28日津波情報
■2008年6月13日 『M8』
■2007年8月5日「人と防災未来センター」

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