『その検索はやめなさい』

書名:『その検索はやめなさい』
著者:苫米地英人(とまべち・ひでと 脳機能学者/計算言語学者/分析哲学者/実業家)
出版社:主婦と生活社(2010年9月6日第1刷発行)

 著者の名前はちょくちょく見掛けるが、胡散臭さが先に立って食わず嫌いだった。たまたま図書館で見つけて借りパラパラめくった。米イェール大学大学院で人工知能を学んだコンピューター科学のエクスパートらしい。オウム真理教信者の脱洗脳や軍・政府関係者のテロリスト洗脳防止訓練プログラムの開発・指導に当たっているほか、近年は外国語を母国語として学習する「英語脳のつくり方」プロジェクトでも注目を浴びている。

 本書は、脳機能を最大限活性化することで情報の達人を目指す「情報収集術」を説いたものだ。従来と異なるのは、ブログやツイッター、フェイスブックなどソーシャル・メディアの登場による情報量そのものの爆発的拡大やキンドル、iPADなどの電子情報収集ツールの出現による情報空間激変を踏まえた点だ。

 活字より、ネットによる情報収集が主流となる時代では、「英語を読む力」が重要になる。英語を読めなければ、バランスの取れた情報を得られないとなると、日本人は「ゴリラの力を持った赤ちゃん」という危険な存在になりかねないと著者は指摘する。英語論としてもなかなか説得力がある。

日本でも世界でもメディアと言えば、新聞かテレビ・ラジオと言ったマスメディアしかなかったのは昔の話。ソーシャル・メディアが登場し、状況がガラリと変わった。最新情報をつかむために必要なのは新聞・雑誌・テレビではなく、携帯電話による号外速報であり、スマートフォンなど情報収集用デバイスに登録しておけば自動的に流れ込んで来るURL付きお知らせメールだ。

 マスメディアの重要性はいささかも衰えるものではないが、それを上回る速度で爆発的に量が増え、質も向上しているのがソーシャル・メディアだ。しかも専門性においてはマスメディアを既に凌駕している。社会・世界は多様性を加速度的に深め、グローバル化も拍車が掛かる一方だ。

 日本のマスメディアが、読者の多様化・グローバル化・加速度化ニーズに応えているとは残念ながら思えない。いくら頑張ってもどうにもならないのが実態だ。情報ニーズの高い読者にとってもう新聞やテレビは少なくても情報収集の観点からは「使えない」媒体になったのかもしれない。

 日本のマスメディアは国内だけでも今や量、質、速度などの面でソーシャル・メディアの追随を許しただけでなく、もう日本語ニュースだけでは、状況の全貌を的確につかめないという時代が突き付ける問題にも直面している。苫米地氏が指摘するように、日本人はもはや「日本語のニュースや記事だけで情報収集などといってもらっては困る」時代に生きているのは確かだ。 同氏は次のように言う。

 「現在、国連加盟国は192か国。そのうち日本語を話す国は日本だけ。日本語ニュースのニーズは192分の1で、日本発のニュースのインパクトも192分の1。ところが、GDPでは日本は1位から3位の間で、世界の経済的リーダーであることは間違いない。経済的観点からみると、日本人が行うことのインパクトは世界192か国に対して圧倒的にあるということになる」

 「そんな日本人であるのに、ほとんどの知識は日本語を通じてのものばかり。つまり、経済的な観点から見れば、世界的に圧倒的な力を持っているのに、知識量は世界的に192分の1しか持っていない。GDPで考えれば、世界の3分の1を動かすだけの力を持っているのが日本人なのだ。日本語しか理解できないお粗末な知識量しか持たない日本人は、自分たちの実力すら分からない。ゴリラの力を持った赤ちゃん。これが日本人です。これを危険といわずに、なんと呼べばいいのでしょうか?」

 「日本国内のニュースは、ローカルニュースとしてくくってもいいくらい。それほど日本という国は世界に対して、影響力を持ち、責任も本来はあるということです。私たちは、それだけの力を潜在的にではなく、『実効』力としてすでに持っている。つまり、世界に対する大きな責任を持っているのが日本なのです。しかし、日本人にはその自覚がまったくない。ないからこそ、海外の動きに鈍感なのです」

 こんな日本は危険な国だ、と苫米地氏は指摘する。日本語で情報をとり、日本語で情報を発信することにあまり違和感を持ってこなかったが、今やそれだけでは許されないということなのだろう。なんで、こんなに英語に苦労しなければならないのかとつい思ってしまうが、それが許されないくらい日本は大国になったということなのだろう。

 謙譲の国・日本としては”大国意識”を持つこと自体、ためらうものがあるが、誰が何と言おうと、日本は大国であることは否定できない。変に遠慮して謙遜するから、責任感もきちんと育まれないのかもしれない。過度な大国意識は無用だが、実態を踏まえた大国意識は自覚しなければならない。

 ただドクター苫米地は、「紙の新聞がなくなるのは自然の流れ」としながらも、電子新聞には未来があるとし、「活字メディア」の重要性は今後さらに重要度が増してくるはずだと指摘する。現代人は活字を含んだ言語空間に生きており、活字抜きの生活は考えられないためだが、その活字は別に紙に印刷されたものである必要は必ずしもない、というわけだ。

 PCやスマートフォンの液晶画面に浮かび上がる活字で事足りる。紙の新聞はコンパクトで一覧性があり、極めて重宝ではあったが、今や時代の要請に応えられなくなってしまった。新聞人としては嘆かわしい限りにしても、時代は常に動く。情報流通を支配してきた新聞と言えども例外ではない。

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