偲ぶ会@横浜

 今月11日に急逝した友人の偲ぶ会を横浜で行った。会には故人と学生時代から付き合いのあった関東近辺居住の5人が集まった。横浜勤務の故人の息子さんにも無理を言って会に出席してもらった。葬儀に列席した私の説明より、息子さんから直接話を聞いたほうが故人を偲ぶにはふさわしい。

 各人がいろんな場面で故人と思い出を共有している。思い出は各人の胸の中に永遠に残り続ける。新しい思い出を作ることも重要だが、持ち時間を考えると、圧倒的にこれまでの思い出のほうが多く、大切だ。これまで、どれだけ、人と深く接してきたか。きちんと付き合ってきた人が何と少ないことか。

 思い出の多寡や思い出の深浅は後になって嘆いても時既に遅しだ。もっと思い出を作っておけば良かったとか、もっときちんと付き合っておけば良かったとか、付き合った友が故人になってしまったからでは後の祭りだ。もう取り返しがつかない。

 そう思うと、現世の付き合いがいかに重要であるのか気づかされる。しかし、それに気付くのは相手がこの世からいなくなってからのことが多い。後悔、先に立たず。こんなことの繰り返しである。人間はなかなか進歩しない。たかだか70年や80年しか生きない。その間に腹に沁みた反省はしても、大体が遅きに失した格好だ。

 思考の波長が合って、屈託なく、関心テーマも共有でき、ときには知的刺激を互いに与え続けられる心の友というのは一生のうちにそんなに多く持てない。残念ながら、そうだ。しかも、そんな友人を作る努力も、目の前の仕事や諸事にかまけて、若いころはどうしてもなおざりになりがちなのが世の常だ。気づくのはいつも、後からなのだ。

 そういう友を失うと、当然のことながら打撃は大きい。4月4日に枚方市で彼と会った際、駅まで送ってくれた姉に友の死を伝えたとき、「そういう友人が亡くなると、丸で生気を取られたような気がするわね」と私を慰めつつも、「残された者は、その人の分まで生きなきゃならない」と励ましてくれた。この言葉を噛み締めている。

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