文章研究

最近、文章のことが何かと気になっている。テーマはともかく、書くことが好きで、それを30年も仕事にもしてきた。もっぱらジャーナリズムの文章なので、書くのはノンフィクション。現役の最後は記事を書く現場から離れて、書くのは社内文書ばかり。書くことによって考え、考えながら書いてきた。書くことと生きることは自分の中では同義語だった。

社業とは別の場でも仕事をした。本を単独で1冊、共著で1冊、報告書も1冊書いた。自分のキャリアの中でのことだったが、それでも本来業務とは別のところでまとまった文章を書くのは生半可なことではない。自分で七転八倒の苦しみをしたから、よく分かる。女性の出産と同じで産みの苦しみを味わった。

書いたのはノンフィクションで、取材が命だから、もちろんは創作は許されない。とにかく、10取材した材料でも使えるのは1つあるかどうかだ。「本にするだけの価値のある内容か」を常に考えながら書いていると、「価値なし」レベルの素材が多く、書き進めない。むしろ、書いていく端から、書いた内容が腐っていく恐怖と闘いながら書き進めなければならない。締め切りを背負っての執筆ならば、もう悲愴そのものだ。

単著を書いていた時期は8割方書き上げた時点で筆が止まり、それまでに築き上げた全体の構造が崩壊しそうになった。書き続けられなくなり、天井を眺めながらため息を付いた。ため息を付く日が何日かあった。しかし、そこでモノを言うのは締め切りである。書けなくても、書き続けるしかないのだ。壁にぶつかり、跳ね返されながらも、それでも、またぶつかっていくしかないのだ。「もう書けません」は通用しない。

ため息を付きながら、それでも机に向かい、ウンウンうなり続けた。そうするうちに、不思議と突破できた。ウンウンうなり続けることが大切だ。ウンウンうなり続けている中からしか、壁を動かす力は出てこない。不思議な現象だ。あの時期の、あの体験が今の自分を支えているような気がする。どんなことでも、どんな状況に追い込まれても、書かなければならないときは書くし、書ける。強烈な自信だ。

1冊目を書いたのは1999年。ざっと12年前のことだ。今、2冊目の単著を書きたい気分になっている。12年前の自信は残っているが、実際に書けるかどうかは分からない。現役を退いて3年。筆力は確実に低下している。体力と同じだ。使わなければ退化する。気分だけで書けるものではない。

ジャーナリズムの世界で生きていながら、書くことの意味についてはほとんど考えてこなかった。どう書くかについても難しく考えたこともなかった。考えるよりも、書くことのほうが先だった。とにかく、書いて書いて書きまくった。書くことは技法ではなく、最初は量だ。量を書いているうちに自然と書けるようになってくるものだ。

書きながら、次から次へと次の言葉が出てくる。ウンウンうならなくても、言葉のほうから湧きあがってくる。考えていることの流れが言葉に置き換わって、飛び出てくるように思える。不思議だ。文章を客観的に考えたことはこれまでない。ただひたすら、書いてきただけだ。しかし一度立ち止まって、文章を研究するのも面白いと思い始めている。

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *

This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.