『侍野球海を渡る』

 

『侍野球海を渡る』-これを読まずして野球を語ることなかれ

『侍野球海を渡る』-これを読まずして野球を語ることなかれ

 

書名:『侍(サムライ)野球海を渡る 安部磯雄と明治38年早大野球部米国初遠征』
著者:川上弘文(元西日本新聞記者)
出版社:書肆草茫々(しょし・くさぼうぼう、佐賀県佐賀市)(2015年11月3日初版)

早稲田に入って最初に住んだのが新宿区戸塚町(現在、西早稲田)だったので、近くにあった「安部球場」の名前だけは知っていた。しかし、球場に名前まで付いた本人のことは正直何も知らなかった。関心もなかった。政治意識が低かった。

コトバンクや国立国会図書館の「近代日本人の肖像」、本書所載の安部磯雄年譜によると、安部磯雄(1865-1949)は社会主義運動の先駆者。早大教授を務めつつ、社会主義運動に携わり、1901年(明治34)には片山潜らとともに社会民主党結成(即日解散)。1926年(大正15)には社会民衆党を結成し、委員長となった。戦後は日本社会党の顧問を務めた。

一方で、安部磯雄は1899年、東京専門学校(現早大)の講師となった2年後の1901年に野球部を創部。初代野球部長で、学生野球の父とも呼ばれた。戸塚町には氏の功績をたたえた「安部球場」(現早大総合学術情報センター)があったが、東伏見キャンパスに移転してからは「早大東伏見グランド」の呼称が使われてきた。

今回、安部磯雄生誕150周年を機に同グランドを「安部磯雄記念野球場」と命名することを決め、21日には記念式典が行われた。本書はそれにタイミングを合わせて出版された。「安部磯雄のスポーツにおける一番の功績は1905(明治38)年の日露戦争さなかに敢行した日本初の米国野球遠征ではなかったか」と著者は言う。

早大野球部チームは、カリフォルニア、オレゴン、ワシントンの西岸3州の大学・高校・倶楽部チームと対戦、26戦7勝19敗。「持ち帰った野球道具と技術が日本近代野球に貢献、米大リーグで大活躍の野茂英雄や鈴木一朗(イチロー)のルーツになったと言っても過言ではない」と川上氏は言う。

遠征を敢行した1905年は日露戦争のさなか。その当時の記録が不明で、「日本野球史の中でも、ブラックボックスになっていた」。川上氏がこの本のテーマを思い付いたのは20年前。きっかけは1995年秋。ロサンゼルス・ドジャーズの野茂英雄が一時帰国した時の記者会見に出た氏(当時西日本新聞東京支社運動部長)が日米交流史に関心を持ったことだった。

安部磯雄は氏と同じ福岡市の出身で、黒田武士の末裔だったことも関心に輪を掛けた。早大がなぜ、いの一番に米国へ遠征できたのか?創部は一高(東大)や慶應がはるかに早い。さらに日露戦争中になぜ行ったのか?なぜ行けたのか?

 

キャッチフレーズは「今まで」誰も書かなかった日本近代野球事始め」

キャッチフレーズは「今まで誰も書かなかった日本近代野球事始め」

 

構想20年。川上氏はこうした謎を3度にわたる現地取材で探り当てる。それが本書に出版につながった。労作である。

私は東伏見の早大キャンパスで開催された安部磯雄生誕150周年イベントには出席しなかったが、午後新安部球場で行われたオール早慶戦を少しのぞいた。

たまたま川上氏は早大文学部の先輩。付き合いはそろそろ半世紀近くになる。大学時代から氏を知る仲間3人が集まり、新宿で歓談した。氏と会うのは10年ぶりくらいか。楽しい一晩だった。

 

 

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