『永続敗戦論』

 

どういうわけか、アディロンダックカフェでランチ(タイ風チャーハン)を食べながら読み終えた

どういうわけか、アディロンダックカフェでランチ(タイ風チャーハン)を食べながら読み終えた

 

書名:『永続敗戦論』(戦後日本の核心)
著者:白井聡(文化学園大学助教)
出版社:太田出版(2013年3月27日初版発行)

 

予約したのは6月。予約の順番は54番だった。「予約資料確保」の連絡が来たのは3カ月後だった。すぐ読んだ。

・「私らは侮辱のなかに生きている」(2012年7月16日、東京・代々木公園)で行われた「さようなら原発10万人集会」において、大江健三郎は中野重治の言葉を引いてそう言った。この言葉は、3.11以来われわれが置かれている状況を見事なまでに的確に言い当てている。

・あの事故をきっかけとして、日本という国の社会は、その「本当の」構造を露呈させたと言ってもよい。明らかになったのは、その住民がどのような性質の権力によって統治され、生活しているのか、ということだ。その構造は、「侮辱」と呼ぶにふさわしいものなのである。

・だからわれわれは憤ってよいし、憤っているし、また憤るべきである。

・「侮辱の経験」

・まず、事故の発生に際し、政府は、原発周辺住民の避難に全力を尽くさなかった。それを端的に物語る経緯は、緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)のデータが国民に公表されなかった、という事実である。しかもそのデータは、国民には隠される一方で、米軍にはしっかりと提供されており、菅首相(当時)はSPEEDIの存在そのものを「知らなかった」とシラを切り続けている。この件について、民間事故調査委員会も、SPEEDIは「原発立地を維持し、住民の安心を買うための『見せ玉』にすぎなかった」と厳しく批判している。開発に30年以上の歳月と、100億円以上の費用が投じられ、維持運営に年7億円の税金が費やされてきたこの装備は、実にこうした使われ方をしたのである。そして依然として、この件について責任を取らされた人間は誰もいない。

・有名になった「想定外」という言葉の内実についてもあらためて思い出しておく必要があるだろう。2006年の国会において吉井英勝衆議院議員(共産党)が「巨大地震の発生に伴う安全機能の喪失など原発の危険から国民の安全を守ることに関する質問主意書」を提出し、地震・津波による原発の全電源喪失の可能性を指摘していた。東電の側も福島第一原発における津波対策の強化の必要性を繰り返し検討していた。にもかかわらず、東電は事故発生当時から繰り返してきた「想定外」という説明を、自社による事故調査報告書においても基本的に守り続けている。

・忘れてはならないのは、事故そのものが収束したというには程遠い状態にあり、今もなおその現場で被爆をこうむりつつある作業に従事している多くの人々がいるという事実である。2011年12月の段階で政府から出された事故の「収束宣言」自体が全くのまやかしにほかならなかった。

・現場の問題が集約された形で見て取れるのは、事故前から原発労働における被爆隠しや労災隠し、給与のピンハネの温床となっていた複雑怪奇な多重下請けの構造である。3機の原子炉が溶け落ち建屋の屋根が吹っ飛んだこの未曾有の事故現場において、この構造だけはしっかりと生き残っている。

・ここには2つの問題が露呈している。第一にはこの作業に従事する人々の危険や健康被害を可能な限り最小限化し、しかるべき仕方で報いる体制がつくられていないという人道的な問題。第二に、この事故を本当の意味で収束させる意思を政府は実際持っているのか、という問題。

・カリに1人ひとりの政治家や関係する高級および下級官吏に、その意思の有無を尋ねたならば、全員が「持っている」と答えるであろう。しかしながら、

関係者全員が持っている意思が、現実に組織総体の意思となる必然性はない。現に約70年前、この国は、「やれば必ず負ける(したがって、やるわけにいかない)」と各界の権力者・識者のほぼ全員が理性の上では承知していながら、太平洋戦争を開戦した。つまり問題は、この事故が処理されうるに適切な体制を構築する意思を現在の政府という組織が実際に体現できているのか、ということであって、関係者が主観的意識の次元でどう考えていようが、それは意義を持たない。

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *

This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.