『デジタル・ジャーナリズムは稼げるか』

 

本の監修を茂木崇氏の解説をyoutubeで聞きながら考えた

本の監修を茂木崇氏の解説をyoutubeで聞きながら考えた

 

書名:『デジタル・ジャーナリズムは稼げるか』(メディアの未来戦略、原題『GEEKS BEARING GIFTS』)
著者:ジェフ・ジャービス(ニューヨーク市立大学大学院教授)
出版社:東洋経済新報社(2016年6月9日発行)

 

著者のジャービス氏はニューヨーク市立大学大学院教授。メディア事業、ジャーナリズムの未来に関する論客でメディアとコミュニティーの新たな関係について頻繁に発言している。メディア/テクノロジー関連のブログ「BuzzMachine.com」を運営している。

起業ジャーナリズム(アントレプレニュリアル・ジャーナリズム)を主導してきたジャービスが近年の思索と実践をまとめたものだ。「その場限りのつじつま合わせではなく、長期的な視点に立って本質的にジャーナリズムを発展させたいと願う人にとって、多くの知恵を得られる必読の書」(監修者・茂木崇氏の解説)だ。

平易な訳文ですらすら読めたが、それでも自説を400ページにわたって展開する大学教授の本を読み通すのはしんどかった。2200円+税=2376円と安くもなかった。しかし、テーマは重要だ。

ジャービス氏は、「メディア企業はもはや従来のような垂直統合型の企業のままではいられない。ベンチャーキャピタルをはじめ投資家たちもメディア・ビジネスへの出資には消極的になっている。また、従来型ジャーナリズムの構造は今の時代では非効率すぎる」と指摘しながらも、「本書ではジャーナリズムの未来を予測するつもりはないし、できない」とし、「ただ次にどのような未来を作ることができるかを考えてみたい」と述べた。

読み終えたが、正直分かったようで、今一つ分からなかった。日米でジャーナリズム事情に違いがあるだろうし、ジャーナリズム改革の点では米国のほうが先行していることもあるほか、コミュニティーに対する認識もかなり差があることも関係しているように思える。

ジャーナリズムとは、「コミュニティーが知識を広げ、整理するのを手助けする仕事」ということになる。そして、狭い定義では、「ただ何かを知らせるだけでなく、何かを主張するのがジャーナリズムだと私は考える」。

・ものの価値には矛盾がある。アダム・スミスは「水は人間が生きる上で不可欠なものだが、ダイヤモンドはそうではない。なのにダイヤモンドが水よりはるかに価値が高いことになっているのはなぜか」という問いを投げかけている。情報の価値設定にも、同じような矛盾がある。社会にとって不可欠と思える情報は、なくても困らないエンターテインメント作品よりも当然、価値が高いはずである。にもかかわらず、その価値の高い情報を売るジャーナリズムがビジネスとして成り立ちにくいのはなぜだろう。

・価値ある情報を高く売ることが難しいのだ。ジャーナリズムの役割は人々に多くの情報を提供するところにある。だが、情報というのは、短時間のうちに陳腐化してしまう。エンターテインメント作品は違う。唯一無二の魅力を持った作品は時間が経っても色褪せることなく人を惹きつける。ジャーナリズムもエンターテインメントも、「物語」を基礎にしている点では同じだが、前者は情報を売りものにし、後者は魅力を売りものにしている点が違っている。

・情報の市場における価値は低い。いったん発せられた情報は、通常はその後、自由にやりとりすることが可能だからだ。新たな情報が伝えられると、すぐに価値を失い、また新たな情報が伝えられる。

・情報は誰かが所有できるものではないし、また所有してはならないものである。著作権法でも、単なる事実についての情報・知識の所有権は保護されない。保護されるのは、情報、知識の「使用方法」の所有権だけである。情報自体に所有権が認められると厄介なことになる。権力者が、何を知ってよく、何を知ってはいけないかを指示することも可能になってしまうからだ。

・私は何も情報が無価値だと言いたいのではないし、常にタダで手に入ると言いたいのでもない。情報を集めようとすれば、多額の費用がかかることも多いのは確かだ。しかし、社会に情報を伝え、広めるのがジャーナリズムの使命である。ジャーナリズムは情報を自由に行き来させなくてはならない。情報を所有し、代金を支払わないと渡さないというのでは、その使命に反することになる。

・エンターテインメントはジャーナリズムとはまったく異なったビジネスであり、法律での扱いも異なっている。エンターテインメントは、知識やアイデア、創造性を駆使して、独自に何か新しいものを作ることで成り立っている。作った人は成果物を所有でき、どう使うかを自ら決めることができる。誰の理由を許可するか、またどのような利用を許可するかも決められる。有料の壁の後ろで、著作権に守られ、繁栄することができる。

・ジャーナリズムにおいては情報を伝えるための手段として物語を使う。エンターテインメントの物語は人を楽しませるためのもので目的が違うが、どちらも物語を使う点では同じである。・・・だが、正直に言って、ニュースの物語はあまり面白くない。しかし、日々のニュースは、知っておくべき重要な情報は決して楽しめるようなものではない。エンターテインメントのビジネスモデルはジャーナリズムには適用できないのだ。

・ニュースとエンターテインメントは「物語」という形式を共有してはいても、それは両者で同じようにビジネスができるということを意味しない。有用な情報を提供できるというのは、今でもジャーナリズムの強みではあるが、ただ情報を物語りのかたちで提供して対価を得るというだけの方法で収益をあげることは難しくなってきている。他の方法を模索しなくてはならない時が来ているのだ。

ジャーナリズムは今後、コンテンツを作って売るというやり方をやめ、サービス業に生まれ変わるべきだ。人々が自分の目標に向かって行動する、その手助けができるような事業を展開すべきだろう。情報に金を払う人は確かにいる。ブルームバーグやトムソン・ロイターの顧客がそうだ。だが、その場合、売っているのは情報というよりもスピードということになる。価値がなくなるのも速い。

・どのような情報でも簡単にリンクを張ることのできる時代になって、ジャーナリスト、メディアと一般の人々との関係が以前とは違ってきている。それをよく認識しなくてはならない。新たなビジネスモデルは、状況が変化していることを十分に知った上で、さらなる調査、実験を多数重ねることではじめて発見できるだろう。私が提案したいのは、金銭ではなく、「価値」に注目することである。価値の新しい評価基準も見つける必要もある。

・今、メディア企業は物語の評価を誤っている。ユニークユーザー数、ページビュー数に価値を置きすぎだ。本来、評価すべきでないものを評価している。従来のマスメディアの基準をそのままデジタルの世界に持ち込んでいるためにそういうことが起きる。コンテンツを何人が利用して、どのくらいの時間を費やしたのか、リンクはどのくらい張られたのか、というのはどれもメディアを中心に据えた基準だろう。突き詰めれば、ユーザーが自分たちの活動やコンテンツにどのように関わったか、というものばかりだからだ。

・価値基準は他にも色々と考えられるはずだ。ジャーナリズムの使命をどの程度果たせたのか、社会にどの程度の影響を与えられたのか。そういう観点で価値を評価する。メディアの側ではなく、サービスを受けるユーザーの側から見た評価をすべきだろう。どれだけニーズを満たせたのか。個々のユーザーの目標達成にどれだけ役だったのか。

・コンテンツの作成から始まるジャーナリズムではなく、人々の声を聞くことから始まるジャーナリズムに変わらなければ、評価は高まらない。皆が何を欲しがり、何を必要とし、何を目標としているのかを知らなくてはならない。ユーザーの声に応え、役に立つ活動をするほど高い価値があるということになる。

・これからの時代は、ニュースはそれぞれに対象の分野や地域を絞り込んだ多数の企業で構成されるエコシステムから提供されるようになる。エコシステム内の企業は規模もビジネスモデルも設立理由も様々である。かなり混沌とした状況になり、どのようなニュースを受け取るかは人によって大きく異なることになる。以前のように、誰もが一斉に同じニュースを受け取るわけではない。

・しかし、ニュース、情報への需要はこれからもますます増え続ける。人々が情報を共有する手段は過去に例のないほど増えている。ニュースの供給源が多くなるのは必然だ。だから、ジャーナリストはより必要とされる存在となり、ビジネスチャンスは必ず増えると私は見ている。それを信じていなければ、大学でジャーナリズムを教えたりはしない。

・私にできるのはこのくらいの控えめな予測だけだ。他にできると言えば、提案くらいなものだ。ジャーナリズムはマスメディアであることをやめ、また単なるコンテンツ制作者であることもやめるべきである。そして、個人、コミュニティーとの緊密な関係、協力関係を基礎としたサービス業になるべきだ。ジャーナリストは自分が何かを言う前にまず、人々の声に耳を傾ける。ニーズを満たし、人々が目標を達成する手助けをする。過去の常識、定説はことごとく疑うべきだ。グーテンベルク以来続いてきた文化はもはや時代遅れとなり、大量生産、大量消費時代のメディアのあり方はもう通用しない。ただコンテンツを作り、同じものを皆に一斉に提供すればいいという時代は終わった.今後の情報化社会で使命を果たす為の手段はギークたちが数多く提供してくれている。彼らの提供する新技術を積極的に利用するつもりになれば、ビジネスチャンスはいくらでもあるだろう。

 

 

本書の監修者で解説もしている東京工芸大学専任講師の茂木崇氏は、7月26日、日本記者クラブで行った研究会「デジタル・ジャーナリズムは稼げるか-メディアの未来戦略」で、記者の質問に答えた。

同氏は「マスコミは崩壊した」としながらも、「マスは崩壊しても無くなったわけではない。規模が縮小している。みんなの関心がバラバラに広がっていく。20世紀が特殊な時代だった。それが元に戻った」との認識を示した。

今後のジャーナリズムについて茂木氏は、「過渡期を耐えて模索するしかないというのが私の意見。迷いながらやっていくしかない。貧しくても志を高く持つしかない」とした上で、「ジャーナリズムの今後は、段々演劇界に近づいていくと思っている。芝居の世界は儲からなくても好きだから人が集まってくる業界。食えなくてもバイトしながらやる世界だ。ジャーナリズムも段々そういう世界になっていく」と述べた。

「今は高い給与だから入社した既存メディアの人がいて、何とか平々凡々に定年を迎えられないかなということがあって、ジャーナリズムの改革を阻んでいるところがあるが、本当に志を持った人だけが集まる世界になっていけば、逆に純化されて底を打つこともあるんじゃないか。そこに期待している。あまりにも貧乏すぎて、ジャーナリズムの火が消えることの方が現実としては起こりそうな感じがするが、何だかんだと言って演劇もコンテンポラリーダンスにしても人は集まるので、ジャーナリズムという仕事は面白いですね。面白いので人は集まる。新しいテクノロジーが出てきたときはそれを利用したもの勝ちなのは確かであって、facebookやtwitterでも、現場から情報を発信できるようになったんだから、それを利用して陣地を築いた人が勝ちになる。新しいものに飛びついて何かやってみようというジャーナリズムの視点はとても大事」

ジャーナリズムの将来について明確な展望を示すことは茂木氏はできなかったが、「新しいものに飛びついて何かやってみよう」という視点は最もジャーナリストが必要な部分なので、元気をもらった気がした。

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