LEADERSⅡ

 

 

佐一郎を乗せて・・・

 

「車が好きだ。もう少し車を作らせて下さい」と言いながら昭和27年3月27日、佐一郎は仕事場で死亡。脳溢血だった。

 

 

TBSは2014年Ⅲ月22日(土)と23日(日)の2夜連続で、ドラマ特別企画「LEADERSリーダーズ」を放送した。愛知佐一郎の生涯とそれを支えた家族、アイチ自動車創設メンバーを中心としたものだった。

17年3月26日(日)に放送された第2弾『LEADERSⅡ』は違った角度から焦点を当てている。外からアイチ自動車を支え、その窮地を救い、佐一郎と同じ夢を見続けたリーダーたちとの絆を描いた物語だ。前回も見たはずだが、なぜだかブログには更新していない。

今やマイカーとして普通に乗っている車は国産車がほとんどだが、戦前まではゼネラル・モータース社やフォード・モーター社などのアメ車が普通だった。それが戦後、国産車の販売台数は外国車を追い抜いた。

当たり前のように国産車に乗っているものの、これはそんな簡単なことではないことを物語っている。やはりブログに残しておきたい。

 

 

鈴鹿峠で熱い論争を繰り広げた!これが2人の物語の始まりだ

 

1934年(昭和9年)、10年前の関東大審査によって物資輸送網が断絶された苦い経験から、日本の自動車需要は急速に過熱していた。欧州勢に加え、アメリカのフォード、GMの本格参入によって日本の市場はまさに外国車の戦国時代に突入していた。

愛知にあるGM車販売店「日の出モータース」の支配人、山崎亘(内野聖陽)はアメリカ流の販売方針を押し付けられることに抵抗し、ことあるごとに改善を訴えていた。だが、大阪に拠点を置く「日本ゼネラルモーターズ」は、一販売店の意見に耳を傾けることはなかった。

そんなある日、大阪からの帰りに山崎は、鈴鹿峠の山道で立ち往生しているシボレーを、背広のまま修理する男・愛知佐一郎(佐藤浩市)に出会う。これがアイチ自動車販売店第一号となり、佐一郎を支え続けることになる山崎亘と佐一郎の運命の出会いだった。

山崎をGMの名古屋支配人と知ったアイチは山崎のこの車に対する正直な感想を聞いた。反ってきたのは「張りぼてですね。ボディーはシボレーの33年型。足回りはフォード。内装はデソート(クライスラーブランド)か。うまく組み立てているが、所詮は寄せ集めだ。こんなもん、壊れて当然ですよ。エンジンだけは一見まともに見えますが、どこのモノとも分からない。粗悪品ですよ。こんなものは。ひどいもんだ」

「ですから、車は人々の暮らしを豊かにする夢なんだ。私はこの夢を売る仕事に誇りを持っているんだ。しかし、現実には本当に車を必要としているのに高くて買えない人がたくさんいるじゃないか。だからみんな粗悪品を作って売る奴が出てくるんだ」

「粗悪品と決めつけて簡単に売りつける考え方は私はしていないな。使ってみて初めて気付くこともあるだろう」

「何を言っているんだ、あんたは」

「だから、そういう積み重ねが未来を作ると言っているんだ」

「未来?何の未来ですか。変わったものの未来ですか」

「私はねえ、いつの日にか誰もが一家に一台乗用車を持てる時代が来ると思っている。この車はその第一歩なんだよ」

「この車が?アッハアッハ。そんな時代がホントにくると思っているのか」

「来る」

「来ないね、絶対に。このまま外国車に頼っている限り、おいしいところも全部連中に持って行かれる。それを変えるためには」

「国産乗用車だ。外国車にも決して引けを取らない、誰でも買える国産乗用車を作ることだよ」

「作る。それがどんなに難しいことか、分かっているのか、あんた」

「この車、張りぼてかもしれない。でもね、エンジンは私たちが作ったんだよ。まだテスト段階の試作品だけどね」

「これをあなたが・・・」

「ええ。あなた夢を売っているんだと言った。私たちは夢を作っているんだよ」

「ああ、助けてもらったのに・・・。本当に済まない。名前を聞かせてもらえますか?」

「名古屋の日の出モーターの山崎亘と申します」

「私は愛知佐一郎と申します」

「もしかして愛知自動織機製作所の・・・」

「今日はありがとうございます」

これが世界に誇る日本の小型乗用車という夢を作り上げた男と、その夢を多くの人々に届けた男の長く険しい挑戦に始まりだった。

 

「日の出モータース」ならぬ「日の暮れモータース」とライバル社の酒田ガレージの酒田健太郎社長(郷ひろみ)から呼ばれ、「もう一度言ってみろ」と殴りつける山崎亘名古屋支店支配人

 

「山崎さんはどんな車を売りたいんですか」と女将の飯田キヨ(菅野美穂)に聞かれ、「夢のある車」と答える日の出モータースの山崎亘支配人

 

東京-名古屋間の往復試乗を成功させたA1型試作乗用車

 

トラックを作れと言われ、200台を間に合わせた

 

5年を費やして乗用車が完成したときには戦争の足音が迫っていた。乗用車生産は国の許可制となり、佐一郎は軍用にも使用できるトラックの生産を余儀なくされた。乗用車を作りたいという夢を封印し、「トラックも流通には喜ばれると思う」というアイチ自動車労組委員長・北川隆二(吉田栄作)の進言だった。

 

そんなある日、佐一郎がA1型試作乗用車に乗って「私どもの販売店第一号になってくれ」と来た

 

佐一郎は「最初はトラックを売ることになるが、近い将来必ずA1型乗用車を売ることになる」と述べた。「ただ自動車を作るだけでなく、日本人の頭で自動車工業を興そうではありませんか」

山崎は「何台売るつもりですか?GMがこれまで販売した車は9万台だ。あんた方の車は10万台、いや20万台ですか」

佐一郎は答えた。「いや、100万台です」

山崎はGMの販売店から名古屋アイチ自動車販売に替えた。残った従業員は当初、日下部誠(東出昌大)1人だけだった。

 

 

 

昭和10年11月、初の国産トラックG1発表会に日がやってきた

 

昭和10年11月。GM販売店から名古屋アイチ自動車販売と名を変えた。そこに初のG1型トラック発表会の日がやってきた。ところが肝心要のG1トラックが前日夜になっても届いていなかった。

工場から30キロ。一体何時間かかっているんだよ。シャフトに問題があるようだ。

 

折れたシャフトの山

 

対立する製販会議

 

最後の1本

 

大島商会の大島磯吉氏

 

喜ぶ社員たち

 

A1型大衆車は飛ぶように売れた

 

奈良若草自動車の菊間竹二郎(大泉洋)

 

奈良若草自動車販売店

 

 

愛知佐一郎は熱い!

 

ディーラー会議

 

菊間説得工作は不調!

 

彼は先を見据えた業界のヘッドライトだと熱弁を振るう菊間竹二郎

 

菊間と山崎の2人を中心に5人衆が結束する

 

国産車販売が外国車を抜く悲願達成!

 

遺影を前に石山又造アイチ自動車副社長(橋爪功)

 

愛知佐一郎の碑を前に

 

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