京都ではなく「平林寺で十分」の紅葉見物

 

平林寺の紅葉

埼玉県新座市野火止の金鳳山平林寺に行った。平林寺はもみじ(紅葉、黄葉)の名所である。もみじがあるお寺は珍しくないが、どうもこの平林寺は別格のようである。 JR東海が1993年から実施している京都誘引キャンペーン「そうだ京都、行こう。」も「いや平林寺で十分」と負けそうだ。 京都のもみじは都会風で洒落ている。それに比べれば、田舎のもみじはひなびて朴訥だが、味わいがある。平林寺の紅葉はこの味わいがあるのである。

川越藩主・松平伊豆守信綱が水源の乏しかった武蔵野に玉川上水と野火止用水を引いたのが発展にきっかけに(こんもりした野火止塚が境内にある)

 

グラデュエーションを帯びた紅葉の雑木林を歩く

 

もみじは落葉広葉樹が落葉の前に葉の色が変わる現象だが、葉の色が赤変することだけを紅葉と呼び、黄色に変わることは黄葉、褐色に変わるのは褐葉と呼ぶ。しかし、どうも厳密に区別するのはむずかしく、全体として紅葉と呼んでいる場合が多い。

そんなことを気にしていたら、ゆっくり楽しめるものも楽しめなくなるではないか。大体のもみじやドウダンツツジが紅くなり、イチョウにように黄色になったりするものもあり、ブナ、スギなどは褐葉する。褐葉するものはあまり鑑賞の対象にはならないだろう。

切り株ともみじ

紅葉するのはほとんどのイロハモミジ(イロハカエデとも)、ハウチワカエデ、サトウカエデ。黄葉するのはイタヤカエデなど。

ベンチの上に落ちた赤いもみじや黄色いもみじ

 

紅葉の絨毯の中にスイセンのつぼみが出ている

 

常緑樹の松の木に赤い紅葉の葉が・・・

 

絵も言われぬ綺麗さだ

 

紅葉は光を呼ぶ

 

2人の前途に幸いあれ

平林寺に出掛けたのは朝からポカポカ陽気だった12月12日(木)。この暖かさに誘われて紅葉見物に出掛けた。平日の午前中で人も少なく、打って付けの散歩日和だった。

2年前の2017年11月25日(土)も紅葉見物している。そのときは土曜日で大変な人だった。それに比べ今回はおじいさん、おばあさんのグループばっかり。自分も同じ年寄りグループなのに、それを忘れてつい若い人の目で周囲を見ている。

年若い青年は紅葉を求めるのではなく、職場で仕事に打ち込んでいるにちがいない。むしろそうでなければならない。平日にこんなところでのんびりしているシニアは少しリッチなのかもしれない。 シニアにも少しリッチな人とそうではなく切羽詰まって働いている人もたくさんいる。

自分がいつ切羽詰まった側に落ち込むのかは知らない。ただそうならないことを祈るばかりだ。 そんなことを思いながら、43ヘクタールという広大な寺域を散策した。東京ドームだと9個分がすっぽり収まる広さだという。東京都心から1時間ほどで武蔵野の面影を留めたお寺があるのはやはりすばらしい。

臨済宗は曹洞宗と並ぶ禅宗の寺である。もっと言えば、中国の禅宗5家(臨済、為仰、雲門、曹洞、法眼)の1つ。いまも栄えているのは臨済宗と曹洞宗のようである。 自分の家は曹洞宗だった。生まれたときから曹洞宗で、恐らく死ぬまでそうである。

禅宗にはほかに臨済宗があることを知識としては知っているものの、中身は知らない。どこがどうちがうのかも知らない。 日本の宗教はほとんど宗教性を持たない。みんな自分の家の宗教の内容を知らないで「曹洞宗」だの、「臨済宗」だのと言っている。おかしなものだ。

せっかくなので「平林寺縁起」について書いておきたい。平林寺が創建されたのは南北朝時代の永和元年(1375年)、現在のさいたま市岩槻区だった。

戦国時代の戦禍に荒廃した平林寺は徳川家康の助力を得て天正20年(1592年)に中興。大河内家(のちの大河内松平家)菩提寺として同家の外護を受けた平林寺は、寛文3年(1663年)川越藩主・松平伊豆守信綱の遺命により、現在の野火止に移転された。 明治に入り、妙心寺派初の関東の専門道場として平林僧堂を開設。歴史を今にたたえる武蔵野の禅寺だ。

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