医療を守るために「暮らし」が壊れるのなら医療を変えていくしかない=医療人類学者の磯野真穂氏
ゲスト:磯野真穂氏(人類学者)
テーマ:新型コロナウイルス「病気をめぐる現実の実感・想像力」
2021年8月3日@日本記者クラブ
医療人類学を専門とする磯野真穂氏が「病気をめぐる現実の実感・想像力」について話した。司会は日本記者クラブ企画委員の黒沢大陸氏(朝日新聞)
■現実の実感は直接経験と情報の融合で成立
・医療人類学というのは人が病気になったり死んだりすることを生物学の観点ではなくて、他者とともに暮らす私たちという観点から捉える学問。
・現実の実感はどのように形成されるのか。現実の理解がどういう形で作られているのか。森に潜む様々な危険に気を付けよ。この世界観が現実の実感だ。共有されており、全体の現実。
・現実の実感というのは直接経験することと情報から得られることの融合によって成立している。ワクチン2回接種したが、2回目接種ののち熱が出る副反応が起きた。しかしこうした副反応が起こるという情報を事前に持っていたので慌てずに済んだ。経験と情報により「大丈夫だろう」と思えた。
・新型コロナの実感はどのように作られたのか。どういうものかについての実感はどのように作られたのか。
・全人口比率から見るとコロナに罹患した人はこれまでの累計でも人口の0.72%、死者においては約0.01%。圧倒的多数がこの病気を経験したこともなければ、見たこともないという現状において人々の「コロナの実感」をどのように醸成される(た)のか。
・「0.72%が大したことではない」ことを指摘する点にポイントはなく、「圧倒的多数が直接経験を欠いているにもかかわらず、この実感はどのように作られるのか」を考えることが今日のポイントだ。
■現代では直接経験なしで情報だけで作られる現実
・この写真は2019年4月5日の新宿駅の様子だ。人っ子1人いなくなった。この時は日本の感染者はほとんどいなかった。人々は完全に動きを止めた。直接経験がないにもかかわらずこの怖さ、実感というのはどのように作られたのか。
・「東京は2週間後のニューヨークだ」と頻繁に言われ、NY市の凄惨な状況や公園に棺が並んでいる状況が報道された。「42万人死亡する恐れがある」との予測も出された。よく言われたのが「助かる命も助からない」「あなたの不要不急の行動が大切な人の
命を奪う」「コロナで亡くなった芸能人のセンセーショナルな報道」も繰り返された。
・ほとんのどの人が経験したことがなかったにもかかわらず、情報によって「どうやらこの病気は非常に恐ろしい」という実感が直接経験なしに作られていった。このような状態は現代社会に特徴的でもある。
・Arjun Appaduraiは「現代社会の行動の基盤は想像力である」と言っている。目の前でどのようなことが起こっているかよりも、どのように現実を想像するかということが人々の日常の行為の足場になっている。彼は次のように言っている。
・「かつて想像力は、おおむね、日常生活の論理から巧妙に引き離されていた。しかし、いまや想像力は日常生活の論理へ食い込むようになったのだ…当時は、力に満ちた指導者がそのヴィジョンを社会生活へと吹き込むことで、社会変動を引き起こす強力な運動を生み出していた。だが、いまや想像力は、特殊な能力を授かった(カリスマ的)個人が、想像力の存在しない場所に想像力を投射する、という問題ではない。ありふれた人々が日常生活の実践の中で想像力を展開し始めたのだ。」
■新型コロナの実感は想像力が基盤
・想像力はかつて神話のような一種安定した社会の中で展開されていた。人々はそれを「ああそうなんだ」と受け取って「水の中に入らない」ことなどを規定してきた。しかし情報メディアはものすごいスピードが速い。世界の裏側で起こったことで1秒後には私たちのスマホに届く状況が起こっている。
・実際に私たちの前で何も起こっていなくても世界の裏側で起こっている映像・イメージ・音声を見たり聞いたりしただけで「自分の日常も次にこのようになるかもしれない」と形づくられてくる。
・第1次緊急事態宣言(対象地域は東京都、千葉県、埼玉県、神奈川県、大阪府、兵庫県、福岡県の7都府県)は2020年4月7日~5月31日(当初は5月6日までだったが延長)。成功した。想像力を同じ方向に稼働したゆえに法的拘束力がないにもかかわらずあそこまでの日常生活の制限を行った。
・「新型コロナの実感は情報を用い人々の想像力に介入し、恐怖を喚起することによって醸造された」と言える。これが悪いと言っているわけではない。予防医学はこの構造をうまく使って日常生活に介入することに成功している。
・1960年代頃以降くらいからは予防医学は目の前に苦しんでいる人を助けるのではなくて、いわゆるエビデンスというものに基づいて未来をコントロールする方向に変わっていった。
・メタボが象徴的な例の1つで、変えないと大変なことが起こると警告される。これは様々なところで起こっている。今は平気だが、確率としてこういうことになる可能性が高い。あなたの日常を変えなさいと言って日常を変えさせる。
■情報に基づいて現実の実感を作ったトイレットペーパーパニック
・新型コロナに関してもこの健康医学のロジックが当初は成功していた。直接経験のないまま情報に基づいて現実の実感を作ってしまうことには警告が寄せられてもいる。
・市川浩氏は『身の構造』の中で石油ショックのときにトイレットペーパーを求めて大混乱が起こったことに触れて以下のように書いている。
・「今日の問題は、記号を仲立ちとする情報経験が、現実の代理ではなく、現実そのものとなったという点にあります。われわれの日常経験をふりかえってみても、現在では直接経験よりもむしろ情報経験の方が圧倒的に多いのに気づきます。毎日家庭や職場で経験する直接経験は、確かな世界の経験です。(身体性がある)それに対して間接経験は不確かな疑似経験であるとして、これまで低い価値しか与えられませんでした。百聞は一見にしかず、というわけです。しかし現代では、われわれが直接経験しない情報経験が量の面で圧倒的に多いというだけでなく、質的にも情報経験が直接経験以上に日常生活にとって大きな意味を持つようになっています」
・これは1990年に言われたことだが、げんざいこれに拍車が掛かっている状態だ。今目の前で起こっていることよりもツイッターで流れている情報のほうが優位になることはよくある。これに対して市川さんは警告を発している。
・「真偽不確定の情報経験によって構成される現実、受容能力を超える過剰な情報刺激、間接経験による疎隔された世界体験、これらがいずれも精神病理的な症候とどこか似ているのは不気味です。」
・情報経験だけで現実がこのようであると現実を作っているこの状況というのは実は精神疾患を抱えている人に見られる理解の在り方とよく似ている。これはちょっと不気味ではないですか。
・ゴンドラ猫という2匹の猫を使った実験がある。身体経験を伴わずに情報ばかり見せられていた猫はいざ解き放たれたときにこの世界の中で自分の身体をどう動かしたらいいのかわからなくなっていた。これは市川さんの警告とつながる面がある。
■科学的な化学分析を無視したBSE感染牛全頭検査
・情報に過多に偏って自分が身体を動かして世界を把握していないということが世界の中で自分自身が動けない状況を作ってしまう。過度な情報経験というのを起こした社会的パニックとして2001年の狂牛病パニックを挙げたい。
・2001年9月10日、国内初のBSE感染牛が報告される。 同年9月16日「N H Kスペシャル なぜ感染は拡大したか」報道。「へたり牛」の映像。 農林水産省には「冷蔵庫に残っている牛肉を食べても大丈夫か」「近所の農家が畑に何か巻いているが肉骨粉ではないか」「飼い犬が腰を抜かしたが狂牛病ではないか」という問い合わせが相次ぐ。
・ 牛肉ばかりでなく、牛エキスを使ったレトルトカレーや、ポテトチップスなどの菓子類にまで不安は広がり、一部業者は安全確認が取れるまでの措置として牛エキスを使った商品の流通全面停止。 医療・食品メーカーも確認作業に追われる。 飲食店、酪農家の倒産のみならず、牛肉の売買トラブルによる殺人事件、獣医師や畜産家の自殺といった痛ましい事件までが次々と起こった。
・これを沈静化するために2001年10月18日、農林、厚労両大臣は共同記者会見を行い、「全頭検査」を開始すると発表した。すべての牛を検査する( 他国が生後24ヶ月、あるいは30ヶ月以上の牛だけに検査をしていたことに比べると異例の措置)と宣言した。
・科学的な観点からは奇妙な宣言。 検査よりも危険部位の除去の方が科学的には確実。なぜなら若い牛を検査しても、病原体が十分に蓄積されていないため感染していても見逃す可能性。あるいは偽陽性の可能性もあるから。
・世界のB S E感染牛総数19万等うち日本で発見されたのは0.02%(36頭) [参考:英国18万4000頭]。日本では何も起きなかったにもかかわらず情報だけで社会がパニックに陥った。情報経験が過度になると危ないことの1つの例。
・「BSEといえば全頭検査といってもいいほど強固な結びつきをイメージする。検査については検出限界以下のものでも検査をすれば安心だという考え方は科学ではなく呪術(おまじない)であり、B S Eの全頭検査のある意味「成功」は日本の科学分析にとっては大きな障害になったと思う。その後の放射性物質を巡るコメの「全袋検査」や、「輸入食品の検査が全体のうちの何パーセントしかなく、全部ではない」といった類の主張をのさばらせることになってしまったのがBSEの全頭検査だと思う。」(国立医薬品食品衛生研究所/畝山智香子「証言:BSE問題の真実」より抜粋)
■誰かの現実を共有する必要はあるのか?
・これらを踏まえて医療人類学の観点から現状をどう見るか。激しい恐怖を掻き立てる目的で、イメージ、音声、言葉を使いながら想像力に介入すれば、直接経験はなくとも人の行動は変容する。BSEや初回の緊急事態宣言を振り返ってみれば明白だ。
・しかしコロナの出現後1年半たって何が起こっているか。私は以下のように考える。
・人々は直接経験を使って現実の実感を作り出した。 人々の想像力に恐怖と罪悪感を立ち上げる目的で発信された数々の情報は当初大成功を収めた。しかし東京はニューヨークにはならなかったし、患者が街に溢れ、診療所に受診ができなくなったわけでもなかった。 家族や友人がコロナでバタバタ死ぬという経験を多くの人々がしたわけでもなかった。
・異なる情報経験を人々が優先し出した。 世界一の病床数を誇り、他国に比べると圧倒的に陽性者数・死者数も少ないのになぜ
1年半たったいまもなぜすぐ医療逼迫になるのか? 医療費は減り、超過死亡は減少した。これは一体何を意味するのか?
・ 恐怖と罪悪感を人々の想像力に立ち上げることで行動変容を起こそうとする手法はもは
や効果を失った(限界を迎えている)と言える。
・私たちは誰かの現実を自分の現実として共有する必要があるのだろうか?「あなたの現実の実感は間違っていて、私の現実の実感
は正しい。だからあなたは私の実感を共有するべきた」と言えるとするならば、その根拠はどこにあるのか?
・どのような価値観を優先すべきか。倫理観を優先すべきか。緊迫感のある人がいる一方で、まるきりない人もいるはずだ。まるきり緊迫感のないのは「誤っている」と言えるのか。ICUで働いている方々と同じ実感を持つことが倫理的であるならば、その根拠はいったいどこにあるのか。答えが出しにくい問題だ。
■リスクは社会が選択する
・リスクは社会の中でどのように選択されるのか。人類学者のメアリ・ダグラス「汚穢と禁忌」を引用しながら考えたい。
・「危険とは多種多様なものであり、それはありとあらゆるところに偏在している。もし個人がそれらの危険全てに気を配っていたら、どんな行動もとれなくなってしまうだろう。不安とはそれらの危険からある種の選択をすることでなければならない」
・この「選択」はおうおうにして社会の中で選択される。本当に交通事故に遭いたくなければ横断歩道を渡らなければ良い。その危険はあると知りつつも、渡る。日焼けも嫌な人がある一方、平気な人もいる。
・新型コロナによる累計死者数1万5184人(worldmeter8月1日)、自殺による死者数3万1943人(警視庁統計を基に発表者が合算、2020年1月~21年6月)。どちらをこの社会は避けねばならない「リスク」として捉えているのか。
・自殺による死者は耐えられる。他方、新型コロナによる死者は耐えられない。そういう見方をしている。自殺は大して報道されない。コロナは大報道される。自殺は引き受けてきた社会だと言わざるを得ない。
・2019年冬にインフルエンザが大流行し、200万人ほど患者が発生した。インフルエンザの死者は受け入れてきた。コロナによる死はとにかく避けねばならないという判断をしている。ダグラスは社会がリスクを選択するときに「誰がどのように責められるのか」(不運の説明)も簡潔に説明している。誰のせいでこんなことが起こったのか。
1. 不運を被った当人(たち)を道徳的に責める、すなわち人格攻撃(あの人は嘘つきだから、友人がいなくなった)
2. 不運を被った当人(たち)の技術不足・構造的問題を責める( あの人が事業に失敗したのは、計画が不十分だったからだ)
3. 外部に敵を設け、あるいは内部に裏切り者を探し、それを責める( 日本政府が情報を隠蔽したからBSEの被害が起こりかねない)
・ダグラスは1-3のどれが用いられるかは社会構造に大きく依存すると指摘している。
・今回のコロナにおいてはなんでコロナが拡がっているのか。「若者が出歩くからだ」「飲食店がいけないんだ」「夜の街がいけないんだ」「五輪のせいなんだ」「ワクチンを打っていない人のせいなんだ」。自分たちの外側のせいにする。反論あるかもしれないが、私はそう見ている。
・コロナの問題を考える際にいまだに日本の全病床数の4%しかコロナに割り当てることができていない。保健所のマンパワー不足で行く先のない人が自宅に留められてしまう構造的問題を報道は指摘すべきだ。外側で何が起こってもしようがない。
・外側に原因を求めるのではなく、構造的問題の解決をしないと、社会が破壊されることが起こってくるのではないか。
■「暮らし」を守るために医療は存在する
・暮らしを守るために医療があるのか、医療を守るために暮らしがあるのか。
・医療というのは人間の社会では新参者だ。医療制度とか病院がないときにもそれなりの方法で生活をしてきたが、今は制度があり病院も存在し、守る生命線となっている。
・もし医療が暮らしを守るためにあり、暮らしが破壊されることがどんどん起こるのなら、暮らしを破壊されないように医療の構造も変えていかなければならない。もうひとつの倫理観として医療が守られれば、暮らしには補償という形で守っていけばいい。
・私は前者の価値観を取っている。現在の構造には問題があるのではないか。今の医療の構造はこれ以上変えられない。
・草むらから太陽が昇って沈むまでの時間を「暮らし」と呼んでいた。太陽が昇って沈むのはいかんともしがたい。太陽が沈まないようにすることはできない。だけれども、このどうしようもない制限の中で背一杯生きていこうというのが「暮らし」と言う言葉に込められた意味なのではないか。「生活」ではない。
■「お願い」が効かなくなったから「ロックダウン」はまずい
○五輪の開催と感染者増を結びつけるのはいい手ではないと考えている。なぜなら構造の問題が見えずらくなるからだ。外側で起こった何かによってこんなことが起こった。五輪が開催されていなかったら甲子園がターゲットになった確率が高い。誰かのせいでこうなっている。五輪の次はワクチンを打ちたくない人。反対している人。
○悪者叩きは不毛。コロナウイルスは新しい風になっていく。私たちがすべきことはこれを完全に押さえ込むよりはどのレベルで引き受けるかとさじ加減をしていることではないか。
○医療構造はいっぱいいっぱいで変えられない。あのせいで感染が拡がっているというやり方をする限り、このウイルスを社会がどう引き受けるかという姿勢は生まれてこない。
○「あのせい」でというやり方は分かりやすい。怒りも喚起されやすい。snsは基本的に恐怖と怒りを喚起すると拡がりやすい。拡散しやすい。しかし、これはコロナをどう引き受けていくかという議論とは全くつながらない。
○「いつマスク外せるのか」という実感を持たれている。
○初回のメッセージが今流されたのなら効果あるでしょうが、ずっと流されてきており、慣れちゃったことはある。
○現行の医療構造がこれ以上変えられないとするならば、週200万人のインフルエンザ患者が出ても医療崩壊が起こらないのか。開業医が担っていたから。
○もうお願いやメッセージで通用しなくなったから強制(法整備)というのは悪習だと思う。ここまでみんな頑張ってきたのに、お願いで効かなくなってきたのでこれからは強制ではこの1年半は何だったのか。お願いが効かなくなったからロックダウンというのは違うのではないか。