【軽井沢】またまたやってきた軽井沢で「歴史民俗資料館」や「堀辰雄文学記念館」を訪ね、「しなの鉄道」に乗って小諸までミニ旅行も
■熱中症の東京を逃れて
6月に続いて今年も9月初旬に軽井沢の友人の別荘を訪れた。東京は日中35度を超える猛暑。比べて軽井沢は25度くらい。10度も温度差がある。
とにかく涼しい。冷房は使ったことがないという。正直、天国みたいな土地である。生き返るので声を掛けてくれたら喜んで跳んでいく。
東京は息苦しいほど暑い。書斎代わりに使っている3畳のクローゼットは冷暖房がない。西向きなので午後2時以降は部屋にいれば即熱中症である。
■三方ヶ峰火山の火口原
軽井沢から東に車を走らせると東御市に広がるのが「池の平湿原」。約20万年前の火山活動により形成された三方ヶ峰(さんぽうがみね)火山の火口原である。
標高は2000mあり、初夏のコマクサ、夏のアヤメ、盛夏のヤナギラン、晩夏のマツムシソウ、初秋のエゾリンドウなど、多くの高山植物の宝庫だ。
歩きやすい歩道が整備されており、天候に恵まれれば、花に誘われて集まってくるベニヒカゲなどの高山蝶や、富士山から八ヶ岳、北アルプスなどの雄大な眺望も楽しめる。
1年前の8月、この池の平湿原の木道をトレッキングした。その時はフル装備で靴もしっかり登山用だった。今回は気楽な高山散歩のつもりだったので、平靴。何も用意していなかった。
高さ3m以上の高木が生育できず、森林を形成できない限界線のことを「森林限界」と呼ぶ。森林限界の標高は緯度によって異なるが、おおむね北海道の山だと1000m前後、日本アルプスなどの中部山岳地域だと2500m前後が目安といわれる。
この森林限界より高い高山帯に生えている植物のことを指す高山植物。広義には高山帯だけでなく、亜高山帯に生育する植物も含める。
池の平湿原を訪ねたのは9月8日。昨年より1カ月遅かったが、ほとんどの花が終わっていた。ワレモコウもほとんどが花を枯らしていた。
もう少しすれば池の平湿原も冬を迎える。真っ白い銀世界が広がっていることだろう。
■歩き疲れた後はチーズ工房へ
池の平湿原から山を降りてきて湯の丸高原入口にあるのが友人夫婦お薦めのチーズ工房「アトリエ・ド・フロマージュ」(長野県東御市新張)。
1982年創業以来、原料と製法にこだわり、最高品質の乳製品を世に送り出している信州で初めての手作りチーズ工房だ。
特にブルーチーズは、フランス・トゥールで開催された2015年国際ナチュラルチーズコンテスト『モンデュアル・デュ・フロマージュ』で最高賞のスーパーゴールドを受賞しており、手作りチーズの逸品を味わえる。
レストラン(ピッツェリア)を持っており、そこで食べたピザやフォンデュは実に繊細でおいしかった。チーズ好きにはたまらない店の1つだ。
東御本店のほか、軽井沢に2つのショップと2つのレストラン、名古屋市松坂屋に1ショップを持っている。
■ルジェンド軽井沢でランチ
今回の軽井沢行も3泊4日だったが、目玉は月曜日のランチだった。軽井沢ワイン倶楽部の食事会は最初、値段もリーズナブルというか割安感があったが、コロナ禍以降急に値上がりし、むしろは割高感が高まった。
もう2年も通っているので新鮮味もなくなり、浮気をしたくなったというわけだ。軽井沢にはたくさん東京などから新規に進出してきており、そうした店も楽しみたくなったということもある。
友人夫婦も同じ考えで、その一環として選んだのがLugend Karuizawa(ルジェンド軽井沢)。ラテン語で光を表す「ルクス」という言葉と伝説「レジェンド」を組み合わせた造語らしい。
それにしても最近はこういう「適当で、いい加減かつ安直な」(失礼!)な造語が目立つ。JR軽井沢駅から歩いても2分。アパホテルのすぐ前。
ルジェンド軽井沢(軽井沢東)は今年3月オープン。くつかけステイグループ(東西建物が運営)傘下のフレンチビストロだ。
姉妹店に和ビストロのGOKAN(五感)や和食の隠れ宿を名乗るくつかけステイ中軽井沢、割烹ダイニングHARII(東京千代田区新丸ビル5階)、サクラテラス(米ハワイ・ホノルル)などを展開している。
店名は安直だが、名前と違って付け刃ではない。料理はすばらしい。おいしい。見事としか言いようがない。
先付け、付き出しに相当する本日のおまかせ料理。ムースのようだ。
アミューズの2皿目は 7種類の野菜などを盛り込んだ日本料理の八寸みたいなものか。去年食べた澤田の八寸を思い出した。
前菜のサラダ「季節の野菜 菜園仕立て」。これは見て何とも美的だ。料理は目でも食べると言われるが、その通りだと思った。
■おいしい料理ならばお金を払う
信州鹿肉のロティ。強く焼いたロースト状の鹿肉のこと。野菜との取り合わせもすばらしい。
軽井沢の人はこんなにうまいものばかり食っているのかと羨ましい。食へのあくなき探究心はすさまじい。食べる人がいなければ作る方もさみしい。
シェフはしっかりとおいしいものを作る。食べる人はしっかり食べて、的確にそれを評価する。双方がかみ合ってはじめて料理が生きる。
お金持ちは食べることに対しても評価は厳しい。それに値すると思ったならばお金も払うが、そうでないものには一銭も払わない。そういう人種だ。
■ シェフは1人の独裁者
正直チェーン店は嫌だが、やはり事情があるのだろう。店を始めるとなると、それなりに資金を投入しなければならないし、ましてや軽井沢となると半端な額ではないはずだ。
有名料理店などで働いていても、シェフは「料理長」。つまり調理場の総指揮官。2人いてはおかしい。店には1人しかいない。それ以外はみんなコックということになる。
大きな調理場では部門ごとに長がいるためにスーシェフ(副料理長)やソテーシェフ(ソース担当=味付け担当)、フィッシュシェフ(魚料理担当)、ローストシェフ(炙り焼きなどの直火焼き担当)、ペストリーシェフ(菓子担当)などがいるが、とにかくシェフは絶対的な存在で1人しかいない。
他はみながコックで、優秀なコックはいずれ自分が独立してシェフになりたいと思えばスポンサーを探すしかない。優秀なシェフに資金を提供したい店もあってそこはマッチングが必要なのだろう。やはり大変な世界である。
■しなの鉄道に乗って小諸まで
ルジェンド軽井沢で絶品のフレンチをいただいてお腹は膨れていた。あとは近くでお茶でも飲んで帰ろうかとなったが、それはもったい。
そこでせっかくだから、電車に乗ってしばし「乗り鉄」気分を味おうというものだ。すぐそばにJR線と並行して「しなの鉄道」(軽井沢~篠ノ井間65.1キロ、篠ノ井~長野間9.3キロの信越本線部分はJR東日本が運行中)が走っている。
しなの鉄道なら小諸までなら25分だ。運賃は500円(片道)。長野まで行くとなると1時間半以上もかかるうえ乗り換えなどロスも多い。結局5駅乗って片道25分の小諸までとなった。
それでも新幹線だと軽井沢ー長野間は所要時間30分、自由席3210円(指定席3940円)。しなの鉄道の各停だと小諸まで500円である。老人夫婦2組のミニ小旅行だった。
ちなみに「しなの鉄道」(しな鉄)は長野県上田市に本社を置く第3セクター鉄道事業者。北陸新幹線の開業に伴い、JR東日本から長野県内のしなの鉄道線と北しなの線の経営を移管された。
■詩情あふれる高原の城下町
軽井沢から小諸だと窓外を眺めつつ、しばし歓談しているうちに着く。あっという間だ。江戸時代には小諸藩の城下町だった小諸だが、文豪・島崎藤村が一時教師として住んでいたこともあって小さな街の割に名前が全国的に通っている。
藤村が住んだのは明治32年から6年余り。小諸市にあった私塾「小諸諸義塾」で教師を務め、「千曲川のスケッチ」などを執筆した。
「まだあげ初めし前髪の林檎のもとにみえしとき 前にさしたる花櫛の、花ある君と思ひけり・・・」(詩集『若菜集』、24歳)
「小諸なる古城のほとり雲白く遊子(いうし)悲しむ 緑なす繁縷(はこべ)は萌えず若草もしくによしなし しろがねの衾(ふすま)の岡邊日に溶けて淡雪流る」(詩集『千曲川旅情の歌』)
詩から小説に転じてからも「破戒」や「夜明け前」などロマン派的な作品を発表し、文豪と呼ばれた。一介の庶民からすれば殿上人のような存在と思われる存在だ。
■脇本陣が宿に
駅の左手は小諸城址「懐古園」だが、右手に降りて200mほど歩くとそこは昔の北国街道(中山道・追分宿から直江津に通じる脇往還)。佐渡の金銀の輸送に使われた「金の道」とも、善光寺へ参拝するための「信仰の道」でもある。
北国街道は千曲川に寄り添うように伸び、長野県から新潟県、北陸に至る。終点については諸説あるという。
北陸の大名が参勤交代に使っていたこともあり、行程のここそこに加賀の大名行列にゆかりのある話が残っているという。
小諸宿には参勤交代の際、殿様などが泊まる本陣もあったが、現在は一部がイタリアンレストランとして営業を行っている。
宿としてリフォームしたのが家老クラスが泊まる脇本陣で、粂屋は一部こもろ観光局が指定管理者として運営している。
■最終日は夫婦で軽井沢美術館めぐり
小諸で遊んで軽井沢に戻ってきたらもう夕刻でかなり暗かった。タクシーで帰ろうとしたが、異議を唱えたのはまた私だった。駅前からプリンステルの循環バスが走っており、ザ・プリンスまでそれに乗車。あとは10分歩けば別荘だ。
富裕層はタクシーに乗るというようなぜいたくはしない。そういう無駄は極力廃し、蓄財してきたからこそ今の生活を維持できているのではないか。そんな話をしたらなぜだか別荘の持ち主も賛同してくれた。不思議や不思議。ともかくノン富裕層も疲れました。
翌朝はツルヤで食材をたっぷり買い込み、さあ帰宅。ではありません。軽井沢はかなり詳しくなったが、まだまだ見ていないところもある。
最初に向かったのが軽井沢町歴史民俗資料館。縄文時代の出土品や中山道関係の宿場資料が展示してあった。
交通の要衝は至るところにあるが、軽井沢もその1つ。なかでも軽井沢が「天下の軽井沢」となったのは外国人により避暑地・別荘地として見出されたためだ。
■カナダ人宣教師が軽井沢の良さを発見
軽井沢は江戸時代、江戸と京都を結ぶ「中山道」の宿場町として栄え、1855年には本陣と脇本陣4軒、旅籠20軒を含めて約80軒の家並みが存在する要衝の地だった。
ところが幕末で参勤交代が廃止され、1884年には碓氷新道が開通しため軽井沢駅への客足は遠のいた。
さらに軽井沢は浅間山の火山性堆積物による土地が痩せていたため高冷地の気候であることも災いして農業で生計を立てることも難しく、住民は困窮を極めた、1882年頃から草原で牧場や混合農業が試みられるようになった。
軽井沢が見直されるきっかけは、カナダ人宣教師アレクサンダー・クロフト・ショーが1886年(明治19年)に軽井沢を訪れたこと。
ショーは軽井沢の美しい自然と過ごしやすい気候に魅了され、その魅力を友人たちに広めた。ショーは軽井沢を「屋根のない病院」と称え、2年後の1888年には軽井沢の別荘第Ⅰ号でもある建物で一夏を過ごした。
ショーの呼び掛けに応じて外国人が避暑地として滞在したり別荘を所有したりするようになり、1889年の夏には100名ほどの外国人が避暑滞在をしたという。