‘Books’ カテゴリーのアーカイブ

古本「たなべ書店」

カテゴリー: Books

2018/01/29  21:43


 

丸八通り沿いの本店は結構広い

 

壁も開けっぴろげに

 

文庫・新書中心の駅前店にありました

 

映画のパンフレットは結構参考になる。写真が大きく、何と言っても分かりやすい。

調べたいことがあって、「THE LAST SAMURAI」を見たかった。2003年のアメリカ映画。トム・クルーズが主役を務めた。ネットで購入するのが一番簡単だが、実店舗もあるというので、江東区南砂に行った。パンフレットとプレスシートもあった。その違いも知りたかった。

見つけたのは「たなべ書店」(江東区南砂4)。開店したのは1986年。地元の人に利用してもらえる下町の古本屋としてのオープンだったが、現在もこの姿勢に変わりはないという。東部古書会館に店主の心意気が載っている

映画のパンフレット収集もやっている。こちらは店主の趣味のようだ。ネットサイトを立ち上げて販売も行っている。ラストサムライのパンフレットは駅前店で購入した。

「広辞苑第7版」

カテゴリー: 文具/電子機器/カバン/辞書, Books

2017/12/18  21:10


 

この人は映画化もされた「舟を編む」の主人公のモデル?

 

ゲスト:平木靖成(ひらき・やすなり)岩波書店辞書編集部副部長
テーマ:広辞苑改訂第7版
2017年12月18日@日本記者クラブ

 

「国語+百科」辞典の最高峰と言われる「広辞苑」の第7版が2018年1月12日に10年ぶりに刊行される。改訂版の柱は類義語(似た意味の言葉)の充実と古典用例の総点検・書き換えの2本。社会が変われば、語釈も変わる。

三浦しをんの小説で映画化された「舟を編む」の主人公、馬締光也辞書編集部員のモデルと目された。本人は否定したが、本当はどうか。

「英語を話せる人」と「挫折する人」の習慣

カテゴリー: 英語力/情報力/文章力, Books

2017/12/10  19:50


 

西真理子氏の本

 

書名:「英語を話せる人」と「挫折人」の習慣
著者:西真理子(英語コーチ/ビジネススキル講師)
出版社:明日香出版社(2015年7月21日初版発行)

 

「英会話学校には通わない&留学・海外経験ゼロ」なのに外資系バイリンガル秘書になれた英語コーチ/ビジネススキル講師の西真理子氏が書いた英語の勉強法についての本だ。

もう50年も勉強してきて、何度も何度も「挫折する人」となって、そろそろ歳だからもうやめようと思っている人間にとっては結構、励まされる内容ではある。このブログに一度書いた「”開き直り”英語塾(上)」(2012年1月19日)を読み返しながら、もう一度悔しい思いをしてみようかなと思っている。少なくてもそういう思いを持たせてくれる内容である。

英語を話せるようになるためには、英語の勉強を正しく「習慣化」する必要があると書かれていること。正しい勉強法を「習慣化」し、やり続けると効果は必ず出る。習慣を1年続ければ、効果を保証する。普遍的な勉強法だ。英語では無くても、何事もそうかもしれない。

・自分のスタイルを見つけること

・原理原則を守ること

・結果が出なくても続けること

・挫折を力にしていくこと

・あわてずに時が熟すのを待つこと

・待つということは「続ける」こと

「勉強法はあくまでも方法論にしか過ぎないが、そこに血が通い、肉となったときに、学習者の「チカラ」となって働いてくれるものだと信じています」と書かれている。信じるか、信じないか、そのどちらかだ。

実践編。どういう風に「習慣化」するか。

▪I think で話す癖をつける ⇒ 英検準2級の面接問題で練習する。

▪音読を習慣にする ⇒「名演説やスピーチ、映画の長めのセリフ、または好きな物語の一節でこの音読をやって暗誦する」

 

「政軍関係を考える」

カテゴリー: 会見メモ, 政治/外交/国際/軍事, Books

2017/11/10  22:23


 

弁の立つ元航空自衛隊航空教育団司令官の廣中雅之氏

 

ゲスト:アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)上級研究員
テーマ:「軍人が政治家になってはいけない本当の理由:政軍関係を考える」(文春新書)

2017年11月10日@日本記者クラブ

 

シンクタンク「アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)」でシニアフェローを務める廣中氏は、航空自衛隊で航空教育団司令官を務めた後、2014年に退官した。同書は、2015年から2年間、米国の2つの安全保障研究シンクタンクで研究した成果をまとめたもの。

「我が国では、絶対的にタブー視されてきた政軍関係の領域に、主として自衛隊の指揮官の視点から一石を投じようとしたもの」と執筆動機を述べている。

『天孫降臨』

カテゴリー: 政治/外交/国際/軍事, Books

2017/10/15  12:30


 

『天孫降臨』(花伝社)

 

書名:『天孫降臨』(てんそんこうりん)
著者:信太謙三(しだ・けんぞう)
出版社:花伝社

時事通信社の中国担当記者、信太謙三氏が初めて取り組んだ小説だ。「入念な古代史研究に基づく、もう一つの立国史」(花伝社)でもあるが、時代は日本で稲作が始まったといわれる2300年前の縄文晩期だから、読者に読ませようと思ったら、もちろん物語性を持ったエンターテインメント(芸能)小説にせざるを得ない。

最初から説明も必要となる。「日本に天皇を中心とする強大な国家が誕生するずっと前、今から2300年以上も昔のことである。4つの大きな島はいずれも鬱蒼たる森に覆われ、そこで暮らす人々はすべて合わせても10万人に満たず、海や川で魚や貝をとり、森の中でイノシシやシカなどを追い、ドングリなどの木の実を集めて生きていた」

「当時、人口が比較的多かったのは東日本の東北や北海道などで、西日本の九州にはすべて合わせても1万人程度しかいなかったが、中国大陸や朝鮮半島から小さな木造船や丸木舟で荒波を乗り越え、九州北部や中国地方に移り住み、稲作を始める人たちもでてきていた」

「日本史の時代区分でいえば、縄文晩期の最後のころで、地球規模での寒冷化が進み、気温は現在より2度ほど低く、木の実が減少し動物の数も少なくなって食糧事情が悪化、飢えや病で死んでいく者が後を絶たず、各地で人口が減り続けていた」

「九州山地の一角、今で言えば、宮崎県高千穂町の中心部を北から南に大きく蛇行しながら流れる五ヶ瀬川の支流、神代川近くの高台にあったヒミ集落も例外ではなかった」。物語の舞台を記すためにも冒頭、こんなに説明を要する時代の話だ。

登場人物も多い。多すぎる。著者が「主な登場人物」として説明しているだけでも23人。チクシ(筑紫)統一を主導したタケとタケの大伯母で博覧強記の巫女のポポくらいは何となく分かるが、他は人物をしっかり把握しないと物語が読めない。読者にはかなりの負担だ。

物語に入っていくのも難しかった。せっかく登場人物に感情移入しながら読んでいっても、間を空けると、また最初から読み直す必要があった。面白いと思え出したのは第一部「新天地」もかなり読み進めたあとだった。途中で読み続けるのをやめた人が出てきても不思議に思わない。

しかし、我慢して読み進めていくと、何とか面白さを感じるようになる。ポポの祖父ザンフィや父ザンチの故郷は大陸の楚の中でも東寄りのウシ村。彼らの家はここで代々、自ら農業を営む旁ら、都の郢(えい)に住む王族の代わりに村人から年貢を集める役割を担っていた。

楚は北の大国である魏、韓、斉の圧迫を受け、南の呉には攻め込まれた。ザンフィたちは村を捨て、海の彼方にあるチクシ(筑紫)島を目指した。「そこは雨も多く、だれの者でもない手つかずの土地が広がっているという。行ってみようではないか」

ウシ村は長江デルタ地域にあり、水路を伝って長江に出、木造船に乗った。危険を承知で大海を突っ切るルートを選択。大海原に出ると、船山群島(舟山群島=中国浙江省の東シナ海上にある群島)の沖から700~800km先のチクシ(筑紫)を目指した。

ザンフィはたどり着いたチクシで森の民の頭目で、ケガをしたヒガキ集落の頭目サットを助けたのを縁に、目的地のマツラに居住する。ザンフィはコメで酒を造り、ヒガキとマツラの両集落はともに発展していく。日本と中国、韓国はいまでこそ勢力を争っているものの、昔は一体的な存在だった。

ポポが生まれたのはザンフィらがマツラに入植してちょうど12年目の夏だった。ザンフィは「チクシは大陸に比べ、確かに貧しいよ。でも、ここには何よりも大切な平和で安定した、人にとってやさしい生活がある。渡来人のわれわれを受け入れてくれたサットたちには感謝するしかない」と酒を飲むといつもこう言って頭を下げた。

これに対し、サットは必ず、「森の民の祖先たちは遠い昔、遙かなる天から海を歩いてこのチクシの地にやってきた」という自分たちの言い伝えを持ち出し、「皆、外からやってきた者たちだ。仲良くやっていくのは当たり前だ」と応じた。

しかし、両集落のこの平和で安定した生活はいとも簡単に崩れ去ってしまった。ポポが7歳のとき、ザンフィとサットが相次いで亡くなり、マツラ集落の酒と塩の利権をめぐって対立が生じ、他の集落を巻き込んだ争いに発展したからだ。

それに朝鮮半島西南部を支配しているカラ国の王族の1人イサムが権力闘争に敗れ、一族郎党を率いて九州に逃れ、クダ集落を開いたことで状況が一変した。イサムは半島への帰還を夢見て、先に入植していた朝鮮からの渡来人を糾合。現在の福岡市博多区の高台に開いた集落を拠点とし、稲作を展開。多数の兵士を養い、青銅の剣や鉾を大量に生産し、武力を使って森の民を含む倭人の支配地域を次々に奪っていった。その中にマツラ集落もあった。

マツラはイサムの命を受けた兵隊頭キムピ率いる約30人の兵士の軍門に下った。ポポは奴隷となり、クダ集落に連れて行かれた。死は選択の中になかった。「一度生を受けたら、どんなことがあっても生き続ける。それがあらゆる動植物に天が与えた責務であり、この時代、人間も例外ではなかった」

ポポはクダで1人の白い衣装をまとった年老いた侍女イビョンの目に止まった。頭目イサムの姉で、巫女を務めていた。集落で絶大な力を有し、神を祭るためのイビョンの斎場は大きな高床式住居の一部を仕切って設けられていた。

ポポは聞き覚えたばかりのカラ語を使ってイビョンの関心を勝ち得、「おもしろい子じゃ。賢い子じゃ。お前は・・・」と思われた。

ポポがクダ集落に来てから9年。16歳だった。身分も奴隷からイビョンの養女となり、記憶力はだれもが驚くほどだった。イサムもポポに意見を求めるようになっていた。しかし、ポポは心の中では母や弟、森に囲まれた故郷マツラ集落のことを思っていた。しかし、ポポはそれをおくびにも出さなかった。

しかし、イビョンが「大巫女」を名乗り、ポポが「巫女」となった18歳のとき、イサムが緊迫した面持ちで斎場に姿を見せ、カラ国について意見を求めた。カラはこのとき、滅亡の危機に直面していた。朝鮮半島には戦乱が続く大陸から逃れてくる華人が後を絶たず、そうした難民が自分たちの治めるシラ国を半島に設立し、カラ国などの朝鮮人の国を攻めてきた。

こうした中でイサムは調略に屈した副官にクーデタを起こされ、結局ポポは身柄を拘束され、土牢に放り込まれた。イビョンは首をはねられた。カラ国の版図を九州だけでなく、山陰地方にも伸ばす計画は着々と進んで行った。

「姉貴、姉貴・・・」

蒸し暑い夏の夜だった。土牢の丸太格子の方から押し殺したような小さな声が聞こえてきた。マツラ集落で使っていた大陸の言葉だった。ポポははっとして体を起こすと、真っ暗な中、這ってままで格子のところまでいった。

「姉貴、(弟の)ザンドゥだ。分かるか?」

脱獄。ここから先は結構、読める。一気呵成だ。

日本は今、東シナ海を巡って中国や韓国、台湾とトラブルを抱えている。2300年前の縄文時代と同じだ。そのことを著者は言いたいのかもしれない。筆者は「日本という国がいったいどういう国で、日本人がどういう民族なのか。この物語を楽しみつつ、考えてもらえばありがたい」と語っている(井上雄介のたいわんブログ)。次作以降が楽しみだ。

 

『蝉しぐれ』再読

カテゴリー: Books

2017/08/25  13:20


 

「文春文庫」版

 

最近、何度も読み返す本が増えている。新刊書を買う回数が激減したのがそのためだが、そればかりとは言えない。一度読んでも、忘れてしまっていることが多いのだ。感動を再びである。

『蝉しぐれ』もその中の一冊。2011年4月21日に読了している。今は毎日が日曜日。東京ビックサイトへの行き帰りに読み続けた。内容はすっかり忘れていたが、読み始めたら少しずつ思い出した。冒頭のシーンは実に印象的だった。

海坂藩普請組の組屋敷の裏手には小川が流れていて、組の者がこの幅六尺に足りない流れを至極重宝にして使っていた。文四朗は玄関を出ると、手ぬぐいをつかんで家の裏手に回った。晴れている日はつい気を引かれて小川のそばに出た。

普請組の組屋敷は、30石以下の軽輩が固まっているので建物自体は小さいが、場所が城下のはずれにあるせいか屋敷だけはそれぞれに250坪から300坪ほどもあり、菜園をつくってもあまるほどに広い。そして隣家との境、家々の裏手には欅や楢、かえで、朴の木、杉、すももなどの立木が雑然と立ち、欅や楢が葉を落とす冬の間は何ほどの木でもないと思うのに、夏は鬱蒼とした木立に変わって、生け垣の先の隣家の様子も見えなくなる。

文四郎が川べりに出ると、隣家の娘ふくが物を洗っていた。「おはよう」と文四郎は言った。その声でふくはちらと文四郎を振り向き、膝をのばして頭を下げたが声は出さなかった。今度は文四郎から顔をかくすように身体の向きを変えてうずくまった。ふくの白い顔が見えなくなり、かわりにぷくりと膨らんだ臀がこちらにむいている。

–ふむ。

文四郎はにが笑いした。

–ふくは、まだ12だ。

—-

悲鳴を上げたのはふくである。とっさに文四郎は間の垣根を跳び越えた。そして小柳の屋敷に入ったときには、立ちすくんだふくの足もとから身をくねらせて逃げる蛇を見つけていた。体長2尺4、5寸ほどのやまかがしのようである。

青い顔をして、ふくが指を押さえている。

「どうした?噛まれたか」

「はい」

「どれ」

手をとってみると、ふくの右手の中指の先がぽつりと赤くなっている。ほんの少しだが血が出ているようだった。

文四郎はためらわずにその指を口にふくむと、傷口を強く吸った。口の中にかすかに血の匂いが広がった。ぼうぜんと手を文四郎にゆだねていたふくが、このとき小さな泣き声をたてた。蛇の毒を思って、恐怖がこみ上げて来たのだろう。

「泣くな」

唾を吐き捨てて、文四郎は叱った。唾は赤くなっていた。

「やまかがしはまむしのようにこわい蛇ではない。心配するな。それに武家の子はこのぐらいのことで泣いてはならん」

ふくの指が白っぽくなるほど傷口の血を吸い尽くしてから、文四郎はふくを放した。これで大丈夫と思うが、家にもどったら蛇に噛まれたと話すようにと言うと、ふくは無言で頭をさげ、小走りに家の方に戻っていった。まだ気が動転しているように見えた。

しかし翌朝、文四郎が頭上で蝉が鳴いている小川べりに出ると、ふくが物を洗っていた。ふくは文四郎を見ると、一人前の女のように襷をはずして立ち、昨日の礼を言った。ふくはいつもと変わりない色白の頬をしていた。

「大丈夫だったか」

文四郎はそう言ったが、ふくの頬が突然に赤くなり、全身にはじらいのいろが浮かぶのを見て、自分もあわててふくから眼をそらした。

隣の小柳の女房は、醤油を貸せ、味噌を貸せ、時には米や金を貸せとしじゅう物を借りに来るのに、自分から返しに来たためしがない。金はほってもおかれずこちらから催促して返してもらうが、あんなだらしのない人はいないと登世(文四郎の母)はこぼしていた。

それでも登世は小柳の女房が物を貸せ、反物の裁ち方を教えろと来ると、断りもできずにそのつど世話を焼いているのだった。いまも文四郎が見ると、母はむっつりと不機嫌な顔のままで、小さくうなずいた。

「いいです」

と文四郎は言った。

文四郎が承諾したのは、ふくを熊野神社の夜祭りに連れて行くということである。ここ4、5年、ずっとふくを夜祭りに連れて行っており、今年もそれを頼んできたからだ。登世は12になったふくを、もはや子どもとは認めていないのである。そのふくを夜祭りに同道しろという、小柳の女房の無神経さにも腹を立てているはずだった。

藩の内紛に巻き込まれた父・助左衛門は切腹を命じられた。対面が許された文四郎に「わしは恥ずべきことをしたわけではない。私の欲ではなく、義のためにやったことだ。おそらくあとには反逆の汚名が残り、そなたたちが苦労することは目に見えているが、文四郎はわしを恥じてはならん。そのことは胸にしまっておけ」

普請組に車が3台あって、うち1台は2人曳きの小さいもので、甚兵衛がそれをかり出しに行ってくれていた。2人曳きの車を1人で曳いた。車の輪は頑丈で重く、棍棒は太かった。遺体をのせてひき出すと、たちまち車の重みが身体にこたえて来た。時間が9ツ(正午)を廻って、腹がすいて来たせいもあるだろう。

—これでは・・・・・。

いちばん近い道を帰るほかはなさそうだ、と文四郎は思った。早くも流れる汗を袖でぬぐって車の上を振り向くと、羽織でもあらごもでも隠しきれなかった助左衛門の青白い足先が見えた。

車を雑木林の横から矢場町の通りまで引き上げたときには、文四郎も道蔵(途中から助っ人に来てくれた道場の後輩)も精根尽き果てて、しばらくは物も言えずに喘いだ。車はそれほどに重かった。

喘いでいる文四郎の眼に、組屋敷の方から小走りに駆けてくる少女の姿が映った。たしかめるまでもなく、ふくだとわかった。

ふくはそばまで来ると、車の上の遺体に手を合わせ、それから歩き出した文四郎によりそって棍棒をつかんだ。無言のままの眼から涙がこぼれるのをそのままに、ふくは一心な力をこめて棍棒をひいていた。

文四郎は家を移った。引っ越しにふくは顔を見せなかった。そして文四郎は親友の小和田逸平と江戸遊学に出た島崎予之介と情報を交換しながら、育っていく。文四郎を訪ねたものの、会えなかったふくは13で江戸に行き、お福さまとなって殿の新しい側女めになっていた。

里村家老に対する怒りには「よくも罠にはめてくれたな」とものずごいものがあった。眼がくらむような怒りのなかで、文四郎は里村家老にひと言申すべきときかと思った。

里村が向かっている机から3間ほどの場所に座った。

「軽輩とみて、侮られましたな」

肩肘を立てると八双からの剣をふるった。脚を2本切られた机が傾き、机の上の書類や書籍が音たてて畳になだれ落ちた。刀をさやにもどしながら、文四郎は言った。

「その気持ちは、かようなものです」

「侮りを受けてはそれがしも武士、黙過しがたくかような振る舞いにおよびましたが、お腹立ちならどうぞいつでも討手をおむけください。尋常にお相手をいたします」

捨てセリフを言えたのが気持ち良かった。

「蝉しぐれ」は最終章。あれから20年余の歳月が過ぎた。若い頃の通称を文四郎と言った若者は牧助左衛門と名乗り、郡奉行になっていた。大浦郡矢尻村にある代官屋敷にいた。

白連院は藩主家ゆかりの尼寺。そのの尼になることを決めたお福が会いたいと言ってきた。さきの藩主が病死して1年近い月日がたっていた。おそらくお福さまは、その1周忌を前に髪を下ろすつもりなのだろう。

助左衛門はおよそ2里ほど道を馬で駆けた。蓑裏の湯宿に行った。お福は身を隠していた。

「江戸に行く前の夜に、私が文四郎さんのお家をたずねたのをおぼえておられますか」

「よくおぼえています」

「私は江戸に行くのがいやで、あのときはおかあさまに、私を文四郎さんのお嫁にしてくださいと頼みに行ったのです」

「・・・・・」

「でも、とてもそんなことは言い出せませんでした。暗い道を、泣きながら家に戻ったのを忘れることが出来ません」

お福さまは深々と吐息をついた。食い違ってしまった運命を嘆く声に聞こえた。

「この指を、おぼえていますか」

お福さまは右手の中指を示しながら、助左衛門ににじり寄った。かぐわしい肌の香が、文四郎の鼻にふれた。

「蛇に噛まれた指です」

「さよう。それがしが血を吸って差し上げた」

お福さまはうつむくと、盃の酒を吸った。そして身体をすべらせると、助左衛門の腕に身を投げかけてきた。2人は抱き合った。助左衛門が唇を求めると、お福さまはそれにもはげしく応えて来た。愛隣の心が助左衛門の胸にあふれた。

 

哀惜は名状しがたい。

『アウトサイダー』陰謀の中の人生

カテゴリー: Books

2017/07/13  22:31


 

 

書名:『アウトサイダー』(陰謀の中の人生)
著者:フレデリック・フォーサイス
訳者:黒原敏行氏

英空軍パイロット、ロイター海外特派員、BBC記者。5カ国語をその国の人以上に流ちょうに操り、MI6の協力者としても活躍した人生を初めて明かした。生まれは1938年イギリス。私より10年早い生まれだが、10年早く私が生まれたとしても彼のように生き方をできたとは思えない。

フォーサイスが社会に出るまでの話で大きな比重を占めるのは、戦闘機パイロットになる夢の話だ。イギリスは階級社会であり、彼も支配階級の一員となるべくエリートを養成するパブリック・スクールに送り込まれる。

彼は上流階級ではあく、中流階級の出身だ。父親は1906年に、留守がちな英国海軍曹長の長男として南部のケント州チャタムで生まれた。20歳で造船学校を卒業したとき、世の中は不景気で、5年間は半端な仕事で細々と生活費を稼ぐことを続けたあと、「若者よ、東を目指せ」というスローガンに従い、マラヤのゴム農園に職を得た。

今日から見れば、マレー語を一語も解せず、東洋のことを何も知らない若者が地球の反対側へ派遣され、大勢のマレー人や中国人が働く広い農園を切り回すというのは不可解なことのように思えるが、これは末期とはいえ大英帝国の時代であり、若者がそうした挑戦をするのはごく普通のことだった。

父は荷造りをし、両親に別れを告げ、船でシンガポールに向かった。マレー語を覚え、農園経営とゴム生産に必要な知識を見に付け、5年間、農園を経営した。農園での生活は世間との交わりのない寂しいものだった。楽しみは週に一度、オートバイで南に下り、密林を抜けて、広い道路に出、幹線道路を横切って、チャンギの町へ行くことだった。

父は4年間頑張ったが、やがてこの生活には未来がないことが明らかになった。ゴムの市場が下落していたのだ。ヨーロッパ諸国の軍拡の動きはまだ始まっていなかったし、新しい合成樹脂が益々市場でのシェアを拡大しつつあった。農園の所有者からは、経営者の所有者kらは、経営者の地位にとどまりたければ20%の減給をのむよう通告してきた。独身の経営者は婚約者を呼び寄せるか、英国に帰るかの選択を迫られた。

こうして去就に迷っていた1935年に、あることが起きた。ある夜、雑役係の少年が父を起こしてこう言った。「だんな、村の大工がきている。会いたいそうです」

 

GINZA SIX

カテゴリー: 文具/電子機器/カバン/辞書, Books

2017/05/26  22:18


 

これは宇宙船か・・・

 

銀座蔦屋書店

 

奥のほうにはバー

 

なかなか凝った店構え

 

上のほうの本はどうして取るのだろう

 

 

空に浮かぶ小宇宙

 

銀座6丁目に銀座エリア最大の複合商業施設「GINZA SIX」(ギンザ・シックス、銀座6)が4月20日にオープンした。老若男女、国籍を問わず、幅広い年齢層の客足が続いている。

5月7日には開業18日目にして150万人を突破するなど大賑わいを演じている。内幸町の日本記者クラブで会見に1つ出たあと、銀座さわだ内科クリニックにかかった。その後、のぞいた。

医者にかかるたびに気になっていたものの、完成してからは初めて。東京の新たな文化情報発信拠点がデビューした。地下6階、地上13階。商業施設は地下2階~6階/13階の一部。7~12階および13階の一部をオフィスとした。屋上は銀座エリア最大の庭園(4000㎡=約1200坪)だ。1階は観光拠点ともなるツーリストサービスセンターや観光バス乗降所を整備している。

地下3階には能楽最大流派「観世流」の拠点「観世能楽堂」を設置。地域に開かれたホールとして機能している。

銀座シックスの外環デザインを設計したのは建築家・谷口吉生氏。丹下健三氏の愛弟子で、東京都葛西臨海水族館や東京国立博物館法隆寺宝物館、ニューヨーク近代美術館などが代表作品。

この日は6階のアートのある生活を提案している蔦屋書店をぶらぶらした。STARBUCKSとコラボすることでコーヒーを飲みながらアートを語ろうことを提唱している。施設概要は以下の通り。

剣豪将軍「義輝」

カテゴリー: Books

2017/02/21  22:58


 

剣豪将軍“義輝”上下2巻

 

書名:剣豪将軍 義輝(上)(下)1995年
著者:宮本昌孝
出版社:徳間書店

足利義輝(あしかが・よしてる、1536~1565)は室町幕府13代将軍。12代義晴の長男。母は近衛尚通の娘。幼名は菊幢丸。初名は義藤。1546年に将軍となるが、三好長慶(みよし・ながよし)など諸将対立のあおりを受け、1553年から5年間近江・朽木谷(くつきだに)に逃れる。六角義賢の仲介で帰洛して以降、交戦中の戦国大名間に和議を勧めるなど将軍権威の回復に努めた。永禄8年(1565)没。30歳。

安土桃山時代から江戸時代にかけては織田信長や豊臣秀吉、徳川家康などきら星のごとく諸将が林立した。日本に武家時代が現れるのは鎌倉幕府だが、その後は足利尊氏の室町幕府の時代(1336~1573)が240年ほど続いた。

足利尊氏が1336年に京都・室町に幕府を開き、15代義昭が織田信長に放逐される1573年までの間を指す。結構長かったが、義輝は終わり近くの13代将軍であり、上泉信綱や塚原卜伝から剣を学んだ剣豪将軍として知られる。どこまで本当なのかはよく分からない。

それをさも本当のように描いたのがこの作品だ。宮本昌孝の出世作で、この作品が彼を有名にしたと言っても過言ではない。

信長や秀吉も登場するが、それより少し前の三好長慶の時代を描いた。長慶の死後、松永久秀の悪逆非道ぶりも描き切った。言葉が大げさで、リアリティーを欠くものの、面白さを優先した物語展開にうなった。

『デジタル・ジャーナリズムは稼げるか』

カテゴリー: ジャーナリズム, Books

2016/09/03  13:16


 

本の監修を茂木崇氏の解説をyoutubeで聞きながら考えた

本の監修を茂木崇氏の解説をyoutubeで聞きながら考えた

 

書名:『デジタル・ジャーナリズムは稼げるか』(メディアの未来戦略、原題『GEEKS BEARING GIFTS』)
著者:ジェフ・ジャービス(ニューヨーク市立大学大学院教授)
出版社:東洋経済新報社(2016年6月9日発行)

 

著者のジャービス氏はニューヨーク市立大学大学院教授。メディア事業、ジャーナリズムの未来に関する論客でメディアとコミュニティーの新たな関係について頻繁に発言している。メディア/テクノロジー関連のブログ「BuzzMachine.com」を運営している。

起業ジャーナリズム(アントレプレニュリアル・ジャーナリズム)を主導してきたジャービスが近年の思索と実践をまとめたものだ。「その場限りのつじつま合わせではなく、長期的な視点に立って本質的にジャーナリズムを発展させたいと願う人にとって、多くの知恵を得られる必読の書」(監修者・茂木崇氏の解説)だ。

平易な訳文ですらすら読めたが、それでも自説を400ページにわたって展開する大学教授の本を読み通すのはしんどかった。2200円+税=2376円と安くもなかった。しかし、テーマは重要だ。

ジャービス氏は、「メディア企業はもはや従来のような垂直統合型の企業のままではいられない。ベンチャーキャピタルをはじめ投資家たちもメディア・ビジネスへの出資には消極的になっている。また、従来型ジャーナリズムの構造は今の時代では非効率すぎる」と指摘しながらも、「本書ではジャーナリズムの未来を予測するつもりはないし、できない」とし、「ただ次にどのような未来を作ることができるかを考えてみたい」と述べた。

読み終えたが、正直分かったようで、今一つ分からなかった。日米でジャーナリズム事情に違いがあるだろうし、ジャーナリズム改革の点では米国のほうが先行していることもあるほか、コミュニティーに対する認識もかなり差があることも関係しているように思える。

ジャーナリズムとは、「コミュニティーが知識を広げ、整理するのを手助けする仕事」ということになる。そして、狭い定義では、「ただ何かを知らせるだけでなく、何かを主張するのがジャーナリズムだと私は考える」。

・ものの価値には矛盾がある。アダム・スミスは「水は人間が生きる上で不可欠なものだが、ダイヤモンドはそうではない。なのにダイヤモンドが水よりはるかに価値が高いことになっているのはなぜか」という問いを投げかけている。情報の価値設定にも、同じような矛盾がある。社会にとって不可欠と思える情報は、なくても困らないエンターテインメント作品よりも当然、価値が高いはずである。にもかかわらず、その価値の高い情報を売るジャーナリズムがビジネスとして成り立ちにくいのはなぜだろう。

・価値ある情報を高く売ることが難しいのだ。ジャーナリズムの役割は人々に多くの情報を提供するところにある。だが、情報というのは、短時間のうちに陳腐化してしまう。エンターテインメント作品は違う。唯一無二の魅力を持った作品は時間が経っても色褪せることなく人を惹きつける。ジャーナリズムもエンターテインメントも、「物語」を基礎にしている点では同じだが、前者は情報を売りものにし、後者は魅力を売りものにしている点が違っている。

・情報の市場における価値は低い。いったん発せられた情報は、通常はその後、自由にやりとりすることが可能だからだ。新たな情報が伝えられると、すぐに価値を失い、また新たな情報が伝えられる。

・情報は誰かが所有できるものではないし、また所有してはならないものである。著作権法でも、単なる事実についての情報・知識の所有権は保護されない。保護されるのは、情報、知識の「使用方法」の所有権だけである。情報自体に所有権が認められると厄介なことになる。権力者が、何を知ってよく、何を知ってはいけないかを指示することも可能になってしまうからだ。

・私は何も情報が無価値だと言いたいのではないし、常にタダで手に入ると言いたいのでもない。情報を集めようとすれば、多額の費用がかかることも多いのは確かだ。しかし、社会に情報を伝え、広めるのがジャーナリズムの使命である。ジャーナリズムは情報を自由に行き来させなくてはならない。情報を所有し、代金を支払わないと渡さないというのでは、その使命に反することになる。

・エンターテインメントはジャーナリズムとはまったく異なったビジネスであり、法律での扱いも異なっている。エンターテインメントは、知識やアイデア、創造性を駆使して、独自に何か新しいものを作ることで成り立っている。作った人は成果物を所有でき、どう使うかを自ら決めることができる。誰の理由を許可するか、またどのような利用を許可するかも決められる。有料の壁の後ろで、著作権に守られ、繁栄することができる。

・ジャーナリズムにおいては情報を伝えるための手段として物語を使う。エンターテインメントの物語は人を楽しませるためのもので目的が違うが、どちらも物語を使う点では同じである。・・・だが、正直に言って、ニュースの物語はあまり面白くない。しかし、日々のニュースは、知っておくべき重要な情報は決して楽しめるようなものではない。エンターテインメントのビジネスモデルはジャーナリズムには適用できないのだ。

・ニュースとエンターテインメントは「物語」という形式を共有してはいても、それは両者で同じようにビジネスができるということを意味しない。有用な情報を提供できるというのは、今でもジャーナリズムの強みではあるが、ただ情報を物語りのかたちで提供して対価を得るというだけの方法で収益をあげることは難しくなってきている。他の方法を模索しなくてはならない時が来ているのだ。

ジャーナリズムは今後、コンテンツを作って売るというやり方をやめ、サービス業に生まれ変わるべきだ。人々が自分の目標に向かって行動する、その手助けができるような事業を展開すべきだろう。情報に金を払う人は確かにいる。ブルームバーグやトムソン・ロイターの顧客がそうだ。だが、その場合、売っているのは情報というよりもスピードということになる。価値がなくなるのも速い。

・どのような情報でも簡単にリンクを張ることのできる時代になって、ジャーナリスト、メディアと一般の人々との関係が以前とは違ってきている。それをよく認識しなくてはならない。新たなビジネスモデルは、状況が変化していることを十分に知った上で、さらなる調査、実験を多数重ねることではじめて発見できるだろう。私が提案したいのは、金銭ではなく、「価値」に注目することである。価値の新しい評価基準も見つける必要もある。

・今、メディア企業は物語の評価を誤っている。ユニークユーザー数、ページビュー数に価値を置きすぎだ。本来、評価すべきでないものを評価している。従来のマスメディアの基準をそのままデジタルの世界に持ち込んでいるためにそういうことが起きる。コンテンツを何人が利用して、どのくらいの時間を費やしたのか、リンクはどのくらい張られたのか、というのはどれもメディアを中心に据えた基準だろう。突き詰めれば、ユーザーが自分たちの活動やコンテンツにどのように関わったか、というものばかりだからだ。

・価値基準は他にも色々と考えられるはずだ。ジャーナリズムの使命をどの程度果たせたのか、社会にどの程度の影響を与えられたのか。そういう観点で価値を評価する。メディアの側ではなく、サービスを受けるユーザーの側から見た評価をすべきだろう。どれだけニーズを満たせたのか。個々のユーザーの目標達成にどれだけ役だったのか。

・コンテンツの作成から始まるジャーナリズムではなく、人々の声を聞くことから始まるジャーナリズムに変わらなければ、評価は高まらない。皆が何を欲しがり、何を必要とし、何を目標としているのかを知らなくてはならない。ユーザーの声に応え、役に立つ活動をするほど高い価値があるということになる。

・これからの時代は、ニュースはそれぞれに対象の分野や地域を絞り込んだ多数の企業で構成されるエコシステムから提供されるようになる。エコシステム内の企業は規模もビジネスモデルも設立理由も様々である。かなり混沌とした状況になり、どのようなニュースを受け取るかは人によって大きく異なることになる。以前のように、誰もが一斉に同じニュースを受け取るわけではない。

・しかし、ニュース、情報への需要はこれからもますます増え続ける。人々が情報を共有する手段は過去に例のないほど増えている。ニュースの供給源が多くなるのは必然だ。だから、ジャーナリストはより必要とされる存在となり、ビジネスチャンスは必ず増えると私は見ている。それを信じていなければ、大学でジャーナリズムを教えたりはしない。

・私にできるのはこのくらいの控えめな予測だけだ。他にできると言えば、提案くらいなものだ。ジャーナリズムはマスメディアであることをやめ、また単なるコンテンツ制作者であることもやめるべきである。そして、個人、コミュニティーとの緊密な関係、協力関係を基礎としたサービス業になるべきだ。ジャーナリストは自分が何かを言う前にまず、人々の声に耳を傾ける。ニーズを満たし、人々が目標を達成する手助けをする。過去の常識、定説はことごとく疑うべきだ。グーテンベルク以来続いてきた文化はもはや時代遅れとなり、大量生産、大量消費時代のメディアのあり方はもう通用しない。ただコンテンツを作り、同じものを皆に一斉に提供すればいいという時代は終わった.今後の情報化社会で使命を果たす為の手段はギークたちが数多く提供してくれている。彼らの提供する新技術を積極的に利用するつもりになれば、ビジネスチャンスはいくらでもあるだろう。

 

 

本書の監修者で解説もしている東京工芸大学専任講師の茂木崇氏は、7月26日、日本記者クラブで行った研究会「デジタル・ジャーナリズムは稼げるか-メディアの未来戦略」で、記者の質問に答えた。

同氏は「マスコミは崩壊した」としながらも、「マスは崩壊しても無くなったわけではない。規模が縮小している。みんなの関心がバラバラに広がっていく。20世紀が特殊な時代だった。それが元に戻った」との認識を示した。

今後のジャーナリズムについて茂木氏は、「過渡期を耐えて模索するしかないというのが私の意見。迷いながらやっていくしかない。貧しくても志を高く持つしかない」とした上で、「ジャーナリズムの今後は、段々演劇界に近づいていくと思っている。芝居の世界は儲からなくても好きだから人が集まってくる業界。食えなくてもバイトしながらやる世界だ。ジャーナリズムも段々そういう世界になっていく」と述べた。

「今は高い給与だから入社した既存メディアの人がいて、何とか平々凡々に定年を迎えられないかなということがあって、ジャーナリズムの改革を阻んでいるところがあるが、本当に志を持った人だけが集まる世界になっていけば、逆に純化されて底を打つこともあるんじゃないか。そこに期待している。あまりにも貧乏すぎて、ジャーナリズムの火が消えることの方が現実としては起こりそうな感じがするが、何だかんだと言って演劇もコンテンポラリーダンスにしても人は集まるので、ジャーナリズムという仕事は面白いですね。面白いので人は集まる。新しいテクノロジーが出てきたときはそれを利用したもの勝ちなのは確かであって、facebookやtwitterでも、現場から情報を発信できるようになったんだから、それを利用して陣地を築いた人が勝ちになる。新しいものに飛びついて何かやってみようというジャーナリズムの視点はとても大事」

ジャーナリズムの将来について明確な展望を示すことは茂木氏はできなかったが、「新しいものに飛びついて何かやってみよう」という視点は最もジャーナリストが必要な部分なので、元気をもらった気がした。