友の死
https://youtu.be/LuXDcn4Rm7g
桜は咲いて、そしてせつなに散りゆく。散るのは花の定めだ。人も毎年、その桜を見ながら、それぞれの人生の花を咲かせ、そしていつかは散る。それが人の世の定めだ。
その定めが突然やってくることもある。友が死んだ。桜は律儀に春が来ればまた咲くが、人はひとたび散れば、待っていても、また会える日々は来ない。それでも、彼に旅立ちの歌を捧げ、せめてもの哀悼の意を示したいと思う。
それは突然やってきた。電話の向こうの声は「悲しい連絡です」と前置きして、「原田さんがお亡くなりになりました」と告げた。仰天した。彼とは先週、昔勤めた会社のOB会で一緒に飲んだばかりだった。それなのに…。理解できなかった。納得できなかなった。
すぐさま、彼の携帯を鳴らした。出たのは奧さんだった。「昨日まで普通だった。2階のソファの上で口を開いた状態で座っていた。『どうしたの』と体を触ったら冷たかった」。高血圧だったから、心筋梗塞が起きたのかもしれないが、事情が飲み込めない。
まだ67歳。私と同年齢だ。体にいつどんな変調が起きてもおかしくない年齢になっているのは確かだが、変事がこのタイミングで自分を襲うとは思えない。変事が起こる可能性は高まっているとは思うものの、実際にそれが起こるとは思わない。思わないからこそ、今日も生き続けることができる。
それにしても事情がよく分からない。悶々とした時間が過ぎていく。通夜・告別式は週末になるという。他のことをやっていても、すぐに彼のことに思いが飛ぶ。落ち着かない。我慢できず、次の日の午後、八王子市の彼の自宅を訪れた。
彼は2階の畳の部屋で眠っていた。安らかな表情だった。今にも起き上がってくるようだ。枕元に本が5冊添えてあった。アマゾンで取り寄せた本で、これから読もうとしていたようだ。原稿執筆の上で参考にしたいと思ったのだろう。
原稿を抱えていた。5本抱えていて、3本書き終え、あと2本を残して午後11時30分頃就寝した。どうも、寝付けず、いったん起き出して1階の寝室から2階のリビングに上がり、血圧を測った。高かった。その後胸痛に襲われ、異変が起きた。
1階の彼の仕事場をのぞいた。8畳ほどの大きな部屋が本や新聞・雑誌の切り抜きなどの資料で埋まっていた。3畳の私の書斎と変わらない。物書きの仕事場はどこも大体がそんなものだ。
窓の外はベランダで、その向こうは庭になっていた。ハナモモの花がまだ咲き残っていた。手前の木は白樺だ。娘さんによると、「父は庭いじりが好きで、よく手入れをしていました」という。そんな一面が彼にあったことを私は知らなかった。
会えば、いつも仕事の話ばかりだった。彼が今何を書いているのかが気になった。彼も私が何を書いているのか気にしてくれた。仕事の上では切磋琢磨した。会社勤めを3年前にやめ、今はお互いにフリーで気楽に書いていた。
それでも世間に向かって書く以上、おかしなものは書けないという気持ちは当然ある。それなりのものを書く努力は怠れない。懸命に集中して取り組んだ。根も詰めた。ジャーナリストとして当然だ。
「健康より原稿」からは脱出し、「原稿より健康」を優先させた。しかし、私は「原稿があってこその人生」だという考えは変わらない。原稿があるからこそ、意欲も気力も高まり、それが健康の原動力になると信じて疑わない。原稿のない健康なんてくそくらえだ。
極言かもしれないが、その信念・信条の上を貫く上で死を迎えたのなら、私は本望だ。彼がどうだったかは知らない。実践していて、命を落とす羽目に陥ったとしたら、家族にとってはとんだ不幸だ。こんなことは、私がまだ今現在、生きているからこそ言えるのであって、突然死を突き付けられた家族には納得できるはずがない。
どんな人も、生きてさえいれば、「朝のこない夜はない」。しかし、死ねば、もう明日は来ない。
いきものがかりの『SAKURA』も彼に捧げたい。
https://youtu.be/IUTQHXPHFzE
映画『黄泉がえり』でRUI(柴咲コウ)がうたう『月のしずく』。これを聴くと、とめどもなく涙が流れる。顔中が涙のしずくで濡れる。悲しいときは泣いていい。友がいなくなったときこそそんなときだ。黄泉がえりを信じて…。