元禄創業老舗和菓子屋のよもやま話

 

秋色庵大坂家18代目の倉本勝敏氏

 

元禄年間(1688~1704)に創業したといわれる老舗和菓子屋「秋色庵大坂家(しゅうしきあんおおさかや)」(港区三田3)の18代目、倉本勝敏氏のよもやま話を港区の神明いきいきプラザ(港区浜松町1)で聞いた。

芝百年会の主催。港区芝地区にある創業100年を超える老舗のお店が集まって創設した会だ。NPO法人農都会議の会合で神明いきいきプラザにはときどき通っているが、過日会合に出たとき、掲示板にこの日のお知らせが貼ってあった。

倉本勝敏氏は1942年(昭和17年)1月、芝の三田生まれ。47年に疎開から戻った。小学校から大学まで芝で育ち、「まるっきり外へは出ていない」という。生業は和菓子屋で私で18代目。創業は元禄年間。将軍徳川綱吉の時代だった。時代は華やかでバブル的な色彩があった、と本に書かれている。

昔から豆腐屋と菓子屋は朝が早いと言われている。朝8時までに「朝生菓子」(その日の朝に製造した製品)を作らなければならないからだという。

「朝生菓子」はその日限りの命で日持ちしない新鮮さが売り物の製品で、8時までに作らなければならないと朝の7つ(朝4時)から仕事を始めないと開店には間に合わないという。閉店は夕4つ(午後10時)。7と4をとって世間からは「11屋」と呼ばれていたそうだ。いつ寝たのか分からない。

江戸のざれ歌に、なんで転んで菓子屋にほれた。足がねばって金がない、というのがある。

「くだらない」という表現がある。「くだらないもの」というのはメイド・イン・江戸のもので、大阪、京都から下っていない。だから「くだらない」と言う。江戸の酒はまずいと言われた。ところが江戸の人は努力家で「おいしい」ものを作れるようになったそうだ。

オリジナル商品の「秋色最中」は16代が考案して売り出した。小倉、栗、黒糖の3種類のあんこを使った最中は日本初の三色最中として好評だったが、同様の名称の最中が広まったため、昭和の初めに「秋色最中」と改名した。

16代は「おれは江戸っ子だ。人と同じ名前なんぞ付けられるかい」と言っていた。江戸っ子は馬鹿からそうでないのか分からない。私も江戸っ子の1人だが。

秋色という名前が付いたのは2代目の娘の「お秋」を由来としているためだという。当店は当時日本橋小網町近くに店を構えていたが、近所に住んでいた松尾芭蕉の直弟子・宝井其角に徘徊を学び、「秋色女」および「菊后亭秋色」と名乗っていた。愛弟子だ。寛文9年に生まれ、享保10年に56歳に没した。

13歳のときに「井戸端の桜あぶなし酒の酔」を読み、公寛法親王の目に留まったという。「秋色桜」として講談にもなっているという。

親父は島根県出身。なので「まだらの江戸っ子」と言われている。

「和菓子は食べちゃうと簡単だが、作るのは大変なんですよ」

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