「清水観音堂」の秘仏ご開帳に出掛けたついでに「上野大仏」も参拝

 

 

月の松

 

東京・上野の清水観音堂を前回1月2日)に続いて再訪した。秘仏ご本尊の千手観世音菩薩像が2月の初午(はつうま)法楽の日にだけご開帳になるということが気になっていた。知った以上、それを突き止めたくなるのが人情だ。今年は2月9日がその日で、午前10時と午後2時の2回公開されるという。

朝になってどうしようかと一瞬考えたが、こんなものは考えてもどうにもならない。迷ったら行くしかない。行ってみてつまらなければ、つまらないと納得して帰ってくればいい。むしろ行かなかったらずっとそのことを後悔するはずだ。

午後2時のご開帳に行った。秘仏と言えども、それをどのように開帳するのか分からなかったので、辺りで様子をうかがっていた。「初午厄除大祈祷会」が終わると、信徒たちが列を作った。本堂と呼ぶにはあまりにも狭い場所で、50分ほど並んだ。やっと堂内に入ると下足を脱いで中に上がる。秘仏の前までまた時間をかけて進み、お参りした。

ご本尊に向かって左側に脇尊の「聖観音」像、右に「子育て観音」像、そして正面にご本尊の千手観世音菩薩像が安置されていた。どれもそんなに大きくはなく、特にご本尊は暗い中だったのでお顔がよく見えなかった。

本堂の中に2人、熱心にお経を読んでいる信徒がいた。信心の足らない私はご本尊のご開帳だけが目的だった。こんな不信心な私にも少なくとも本堂内に上げてくれた寺の僥倖には敬意を表したい。

ひっそりと佇む秋色桜(現在は9代目で樹齢30年ほど)

 

清水観音堂のそばにひっそりと佇むのが「秋色桜」(八重紅枝垂れ桜)。上野は江戸時代の初めから桜の名所だったが、固有の名を付けられた樹も何本かあり、その代表的なものがこの「秋色桜」らしい。

傍らの句碑には次のような句が刻まれている。「井戸ばたの桜あぶなし酒の酔い」

詠んだのは日本橋小網町の菓子屋の娘お秋。お秋が13歳の時、手習いの師匠に連れられ上野の山に花見に行く。他の子どもたちが喜々として遊びに熱中する中、お秋はひとり清水観音堂の脇に咲く桜に見とれていた。

すると、向こうの方から職人体の酔っ払い2人がやってきて1人が桜の木の脇にある井戸に手を付こうとすると、もう1人は「落っこちてしまうぞ」と言いながら男を抱えるようにして立ち去っていく。この様子を見たお秋は矢立を取り出し、「井戸端の桜あぶなし酒の酔い」と短冊に書いて桜の枝にぶら下げた。

桜の枝に結ばれたこの句は輪王寺宮(寛永寺と日光山を治めた宮家の長)の目に留まり、一躍江戸中の大評判になったという。お秋はその後、俳号を菊后亭秋色と号した。以来この桜は「秋色桜」と呼ばれている。ただし、当時の井戸は摺鉢山近くにあったともいわれ正確な位置については定かではない。

なお有名になったお秋の家は「秋色庵大坂家」(港区三田3)という名前の老舗和菓子家。当時は日本橋小網町に店を構えていたが、火事に遭い今の慶応三田校舎の前に引っ越してきたらしい。18代の当主が店を継いでおり、秋色桜の話を聞いた

上野大仏

 

東京に住んで50年近くになるというのに知らなかったのは上野大仏。知っているのは板橋区の「東京大仏」だが、上野にあるのは巨大な顔だけの大仏だった。というのも上野大仏は寛永8年(1631年)に越後村上藩主の堀直寄が戦死者慰霊のために作った釈迦如来座像。奈良の大仏は約18m、鎌倉の大仏は約11mなのに対して約6mと小ぶりだったが、歴史の中で様々な困難に直面し、リリーフだけが残った。

天保4年(1647年)に地震で倒壊したが、1658~61年に金銅像という名前で再建された。その後も火災や大地震など度重なる自然災害で体の一部や頭部が破壊され、その都度修復されてきた。1923年の関東大震災ではついに頭部が落下し、第2次世界大戦では体部分を失った。

頭部は寛永寺に保管されていたが、上野観光連盟が願主となり、関東大震災の50周忌に当たる1967年(昭和42年)に、上野精養軒に隣接する大仏山という丘の上に大仏再建を願う祈願塔を建立。1972年(昭和47年)に顔面部をレリーフ(浮き彫り)として安置した。

 

合格大仏

現在は体部分がなく、顔面部分のみがレリーフとして保存されている。これ以上落ちないということで合格祈願に訪れる受験生が多いといわれる。そばには薬師仏を祀っている「大仏パゴダ」(仏塔)も建立されている。ミャンマー方式の仏塔で大成建設が寄進した。

 

上野公園に建つ西郷銅像(高村光雲作、傍らの犬「ツン」は後藤貞行作)

 

上野公園の入り口にどんと建っているのが西郷隆盛(1828~1877年)像。日本の武士であり、軍人であり、政治家でもあった。西郷は明治政府の「逆徒」だったが、恩赦によって汚名が解かれたのをきっかけに、1898年(明治31年)12月18日に建設された。

「上野の西郷さん」と呼ばれて122年にわたって国民に親しまれている。西郷には信頼性のある写真が1枚も残っていなかったという。この西郷どんは愛犬を連れ、ウサギ狩りに出掛ける姿。一切の名利を捨てて山に入ってキツネ狩りをした飾りのない本来の姿にこそ彼の真骨頂はあるらしいが、糸子夫人は「うちの人はこんなお人じゃなかったですよ」と周囲に言ったという。

西郷どんについてはこのブログでも書いたが、短かい記事だった。もう一度しっかり書いてみたい気がしている。

 

 

どら焼き

 

うさぎや

 

上野と言ったら「うさぎや」を思い出した。上野以外にも日本橋に2店舗、阿佐ヶ谷に1店舗がある。どの店が本家、本元なのか分からないが、防腐剤を一切使用しておらず、賞味期間も2日間。

とにかく大きくて、おいしい。外のベンチに座って食べている人もいる。あんまり遅いと売り切れもある。昔行ったときのブログを上げておきたい。

 

 

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *

This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.