【街歩き】:縁がまたできて日本橋人形町界隈をぶらぶら=富塚あり洋和食の名店もあって楽しくて楽しくて

 

椙森(すぎのもり)神社

 

日本橋蛎殻町には東京穀物商品取引所、日本橋堀留町には東京工業品取引所があった。1995年から2000年の頃だった。今から25年から20年ほど前のことになる。その東穀取はいつの間にかなくなり、東工取も東京商品取引所に名前を変えていた。

商品先物市場は世界で大阪の堂島米会所が最初で、その後世界に広がった。19あった商品取引所も1999年3月時点では7取引所まで減った。それが20年かけてさらに減り、今年7月には東商取1つになる。宿願の総合取引所が成立する予定だ。

当時は記者として所属していた会社が力を入れていた商品先物を一時取材させられた。その後は業界と縁を切っていたが、定年退職後にまた縁ができることになった。日本橋堀留町、日本橋蛎殻町、日本橋人形町、日本橋小網町辺りはまた霞が関や永田町とは違う空気が流れている。

縁は異なものである。この世界の空気を吸っていたこともあって、東商取の裏手にある小さな神社にお参りをした。椙森(すぎのもり)神社という。この神社の名前にちなんでか、東工取の記者クラブは「椙森クラブ」と言った。

最初にクラブに入会届けを出そうとした折り、この「椙森」がちゃんと読めなかった。辞書を引いて「すぎのもり」と呼ぶことを知った。昔はべったら市があるときだけ、取引所周辺は祭り気分で盛り上がったことを今も思い出す。

昔は金先物やゴム先物などが手振りで取引されていたが、IT化の波が押し寄せ、あっという間に電子取引が主流になった。今や株式や商品先物も手振りでやっているところはない。手口も専門家を2人ベタ張りにして取材していたが、それもなくなり、記者クラブもまもなくなくなる予定だという。時代は変わるものである。

 

 

何と「富塚」

 

この椙森神社の入り口のそばにあるのが富塚。椙森神社の創建は江戸がまだ武蔵の原と言われた時代で、日本橋も江戸商人の発祥の地としても栄えてきた。神社は日本橋のほぼ中心に位置し、椙森神社のほか、浅草寺、回向院、増上寺などでも行われた。

なかでも感応寺、目黒不動、湯島天神は「江戸の3富」といわれるほどだったという。

この富興行は江戸庶民の楽しみの1つであり、庶民の泣き笑いを誘うものでもあった。この富塚は庶民の心の記念として大正9年(1920年)に建立されたが、関東大震災によって倒壊。その後有志が昭和28年(1953年)11月に再建された。

この富塚は他に類を見ないと言われ、日本唯一の物だという。今日では宝くじの元祖として多くの人々が心中祈願しているようだという。そう言えば、時折神社に向けて手を合わす人を何人か見掛けた。これも宝くじの心中祈願なのだろうか。

 

人形町のシンボル「町火消し」

 

日本橋人形町のシンボルのもなっているのが「からくり櫓」。2基あって1基は水天宮側にある「江戸落語」、もう1基はこの人形町交差点側にある「町火消し」。高さは7m55㎝。

こちらは、火消し衆が回りだし、木遣りが流れると、上段の絵が回転し、まとい持ちが「は組」のまといを振り込む。江戸時代に人形町界隈は町火消しは48組中の「は組」が受け持っていたという。

 

 

明治45年創業の小春軒

 

そう言えば、人形町界隈は庶民的な食堂や割烹、小料理屋が多いことでも有名な街だったことを思い出した。鳥料理の「玉ひで」の親子丼、「すき焼き」の人形町今半本店は今も本格的な店を持っている。

小料理店「よし梅」も健在だった。25年前にねぎま鍋を食べたことを思い出した。店の中に入ると、下町情緒が醸し出される。やはり異次元の世界である。

人形町界隈の人たちは商品先物なんか知らないだろう。知らなくてもこの街が銀座や霞が関などとは異なる世界であることだけは肌で感じているはずだ。そういう匂いも持っている。昔の江戸情緒だ。

 

かじきまぐろのバター焼ライス

 

「人形町洋食御三家」と呼ばれているのが芳味亭、洋食キラク、小春軒だ。小春軒ではかじきまぐろバター焼ライスをいただいた。ほかにも天ぷら「中山」、牡蠣フライ定食が名高い「三友」などもある。

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