【福島ドライブ】会津の歴史・文化・精神を学ぶ「武家屋敷」や「鶴ヶ城」を観光し三ノ倉高原では菜の花畑の予想外の眺望に息を呑んだ2日目

西郷家一族の自刃の場

 

■会津藩家老・西郷頼母の屋敷を復元した武家屋敷

 

2日目は宿から車で3分足らずの地にある博物館の「会津武家屋敷」(東山町)を先ず訪れた。言わずと知れた会津藩は幕末における佐幕派(幕府を補佐するグループ)の筆頭として戊辰戦争で新政府軍との戦いの矢面に立たされた悲運の藩でもある。

会津藩の武家屋敷は戊辰戦争によってほとんどが武具、家財とともに焼失。このため会津武家屋敷には、2年余の歳月をかけて大手門前にあった家老・西郷頼母(さいごうたのも)邸を復元したものを中心に、武家文化にかかわる建物を集めている。

西郷家は代々会津藩家老職を務め、1700石の家柄。幕末期の当主は頼母近悳(たのもちかのり)で、頼母は田中土佐とともに藩主・松平容保(まつだいらかたもり)に京都守護職辞退を進言したものの容れられなかった。

戊辰戦争では和議恭順を唱え抗戦派に命を狙われ、新政府軍が城下に乱入したときには頼母は城下を脱出していたが、家族ら21人は辞世の句を残して自決した。

「慶応4年8月23日、西軍の侵攻は疾風の如くであった。西郷が登城した留守宅では、妻の千恵子を筆頭に一族郎党21人が全員自刃を遂げた」と悲劇の場が再現されている。

戊辰戦争の際には新政府軍の新鋭軍備の猛攻に耐え、1カ月にも及んだ籠城戦を戦った。「難攻不落の名城」としても有名だ。

西郷頼母は会津を脱出後、榎本武揚や土方歳三と合流し新政府軍と交戦。旧政府軍が降伏したことで新政府軍に投降し、1872年に赦免され1899年には郷里の若松に戻った。

1903年(明治36)に会津若松の十軒長屋で74歳で死去している。

 

陽光に輝く鶴ヶ城

 

■会津若松市のシンボル「鶴ヶ城」

 

会津若松市のシンボルが「鶴ヶ城」(つるがじょう)だが、戊辰戦争で会津藩が降伏した結果、5層だった天守閣も石垣と堀の一部を残して城内の建物全てが取り壊された。鶴ヶ城は愛称で、正式名称は「若松城」という。

その後再建話は何度もあったものの、市が財政難であることなどから反対されてきた。天守閣再建を推進したのは横山武若松市長で、昭和29年(1954年)の市議会で賛成18対反対16という僅差で再建が決まった。

必要な経費も全国から巨額の寄付金が集まり、昭和39年(1964)着工、翌年竣工した。再建された天守閣(25m)は1層から5層まで4本の鉄柱に支えられている。天守台は11m、地下は18m。

 

外は猛暑でもお城の中に入ると納涼空間

 

■最後の城主は松平容保氏

 

鶴ヶ城は南北朝時代の1384年、葦名直盛(あしななおもり)が築いた黒川城が前身だ。その後、蒲生氏郷(がもううじさと)が生まれ故郷の滋賀県日野町にあった「若松の森」からとって地名を黒川から若松に、城も若松城に改称した。氏郷の幼名・鶴千代から「鶴ヶ城」という愛称を付けた。

会津を収めたのは葦名時代(1189~1589年の205年間)⇒伊達時代(1589~1590年の1年間)⇒蒲生時代(1590~1598年の8年間)⇒上杉時代(1598~1601年の3年間)⇒蒲生時代②(1601~1627年の26年間)⇒加藤時代(1627~1643年の16年間)⇒保科・松平時代(1643~1868年の225年間)。

最後の保科・松平時代は保科正之(ほしなまさゆき)が領主となり、城の大改修によりひっ迫した藩財政の立て直しに努めた。その後、保科家3代のときに幕府から松平姓と葵紋の使用を許され、これ以降保科家は松平と名乗り、家紋も葵紋を使用する。

そして9代藩主・松平容保の代、1868年の鳥羽伏見の戦いから始まった戊辰戦争で会津藩は徳川幕府とともに終焉を迎えた。

 

菜の花一色

菜の花畑

 

■一面菜の花畑

 

町興しの一環で河津桜(神奈川県足柄郡松田町)や桜芝桜(埼玉県秩父市の羊山公園)、ネモフィラ(茨城県国営ひたち海浜公園)など空き地にいろんな花を植栽し観光客を呼び寄せる仕掛けが盛んだ。

テレビで放映していた福島県喜多方市にある三ノ倉高原(熱塩加納町=あつしおかのうまち)の菜の花畑もその一環で、それほど期待していなかったが、規模が違った。7.83ヘクタールの敷地に約350万本の黄色い菜の花が咲き誇っている。

喜多方市のそばを走る国道121号線を米沢市に向けて走ること30分ほど。やや奥まった標高666メートルの三ノ倉スキー場がゲレンデの傾斜地を活用した花畑でグラジュエーションが楽しめるのがすばらしい。

眼下に広がる会津盆地を一望しながら黄色いじゅうたんと、自然の織りなす景観を堪能できるのは息を呑むほどの美しさである。

すぐそばでウグイスが鳴いている。のんびりとゆったりと人の存在をあまり気にしない鳴き方だ。

 

これは何でしょう?

 

■結婚式の「前撮り」か

 

菜の花畑の一角でグループが写真を撮っていた。それも男性はタキシード、片や女性はウエディングドレスを着ている。こんなところでなぜと思ったが、よく考えると結婚式の「前撮り」だった。

椿山荘の結婚準備ガイドによると、「前撮り」は「プレウエデイングフォト」ともいい、写真を撮ることを目的にした日を設けてゆったりと撮影を楽しんでいただくものだという。

結婚式の前に行うため「前撮り」とも呼んでいる。結婚式当日は時間に追われ、写真撮影もどうしても慌ただしくなりがちだ。前撮りであれば、挙式とは別の日にゆったりとリラックスした時間の中で撮影を楽しめることが最大のメリットだ。

それもふたりの希望の場所で写真を撮影することができるとなれば最高ではないか。そう言えば、いつしか風が強く寒い日に東京駅の丸の内側の一角で何組ものカップルを見掛けたし、パレスホテルでも廊下で撮影を行っているカップルに遭遇したこともある。

ゼクシイ結婚トレンド調査2022によると、結婚式の前に撮る「前撮り」または結婚式の後に撮る「後撮り」をしたカップルは73.3%という結果だという。どうやら実施率は年々増えているようだ。

 

幸福の鐘

 

菜の花畑は5月28日まで、その後はヒマワリ畑やコスモス畑が出現するという。冬のスキー客をつなぎ止めるためだとしても次から次へと客集めに精出す地方の商魂はたくましい。

 

 

桧原湖に陽が沈む

 

■ゆったり13時チェックアウトのシニア割

 

泊まったのは裏磐梯レイクリゾート本館五色の森・旧裏磐梯猫魔ホテル。スタンダードツインを予約したが、料金は同じでスーペリアツインに部屋がアップグレードされた。嬉しい。

部屋はシンプルで居心地の良い41平方メートル。かなり広い。窓から桧原湖を眺めながらくつろぐことができる。おまけに通常11時までのところ、13時まで利用可能なシニア割の特典も受けられた。

エリア最大の湖「桧原湖畔」に佇み、五色沼まで徒歩約3分。磐梯山をも望むことのできる最高のロケーションに位置する高原リゾートは驚きだ。

源泉かけ流しの温泉はどっしりと1階の真正面にあり、宿泊客グループの建設関係者と見られる1人から「地震対策からしても王道を行っている建て方だ」とのコメントが聞かれた。ほかにもいろいろ楽しめそうだ。

温泉は美容成分を豊富に含む「美肌の湯」だとか。露天風呂も桧原湖を眼下に望み風情がある。今回はたった1泊だったが、ひょっとしたらリピーターになるかもしれない。

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