【同窓会】何とか「大阪取引所」にはたどり着いたものの、なぜだか「堂島米市場」は見つからず=「喜寿同窓会」で友の顔を拝めた幸せな日

 

やってきました新大阪駅

 

■大阪万博へは行かない

 

大阪の街を歩くのは何年ぶりだろうか。車では何度も来ており、昨年10月には吹田市の長姉宅に泊まったが、大阪駅周辺を自分の足で歩き回るのは数十年ぶりかもしれない。

夢洲で開催中の大阪万博をのぞくことも考えたが、事前の情報収集もほとんど何もしていない状況では疲れるだけだと考えた。

会場の雰囲気を味わい、現場の空気を吸うだけでも価値があると思う人には行くだけの価値があるだろうが、それほどでもなかった。

大阪駅周辺を歩き回ることを決めたのも数日前のこと。とにかく大阪駅周辺をうろついて、翌日、故郷で開かれる喜寿(77歳)同窓会に参加するだけでも精一杯だ。

 

淀屋橋は立派だった

 

■大阪取引所を探す

 

新大阪駅から地下鉄で「淀屋橋」で下車。国内最大のデリバティブ専門市場である大阪取引所(大阪市北浜1)を探した。

スマホで大阪取引所を表示。経路を案内させれば、簡単にたどり着けるはずだが、なかなかうまく着けない。普段からほとんど使っていないからだ。

アナログ人間である。淀屋橋周辺を何度もウロウロした。土佐堀川や堂島川周辺を歩いた。淀屋橋や大江橋があった。淀屋橋の架かっている道は御堂筋らしい。

その土地を知るためにはとにかく歩き回ることが重要だ。ひたすら歩き回れば疲れるが、その土地がどういうものか、いわゆる「土地勘」が得られる。

歩き回った日が暑かったのか、寒かったのか、それとも心地よかったのか肌で感じることができる。その感じは忘れられない。

 

荘重な趣の中之島図書館

 

■こんなところで彼女と出会い

 

そう言えば、大学時代の友人で帰省中に大阪府立中之島図書館で彼女と出会い、結局その彼女と一緒になったという話を思い出した。その中之島図書館が目の前にある。どっしりとした建物だ。

2人とも卒業後学校の教師になったが、夫人は早くに亡くなり、独りになっていた友人も退職後、60代半ばで世をはかなんだ。

彼とは親友と言ってよかった。大学時代を含め、いつも自分のそばにいた人間だった。彼を亡くした際、ずいぶん涙を流したことを思いだした。

歩きながら、どうも変なことを思い出す。私の人生にそれなりの陰影を付けてくれた友人だった。人は一人では生きていけない。彼のことを思い出すと、また泣けてきた。

 

 

何とかたどり着いた大阪取引所

 

■現場が見えないデリバティブ取引所

 

大阪を歩くのは初めてではない。昔予備校時代に1年間住んでいたが、予備校と学習室、下宿の3カ所をグルグル回っていただけ、外の世界にはあまり出なかった。

商況部長や商品経済部長のときに商品先物を担当し、当時大阪にあった大阪商品取引所と関西商品取引所に出張したことはある。

総合取引所構想に基づき、金融先物と商品先物の統合が図られたが、結局農水省と経産省の調整が付かないままいびつな統合取引所ができた。

今は商品取引所の自主規制や苦情・紛争解決、外務員登録などの事業を行う日本商品先物取引協会(日商協、本部・東京都中央区日本橋人形町)の理事を務めているが、なにせ取引している現場がないのだ。

昔は取引所もあって、立ち会い場もあった。場立ちが取引を行い、実際に取引している姿を眺められた。そんな光景が今はない。みんなコンピューターの中で行われており、外からは全く見えない。

 

五代友厚公の銅像が建っていた

 

■とにかく現場が見たかった

 

ひとめ現場を見たいという気持ちも今回の大阪取引所視察の目的でもあった。特に私はジャーナリストとして会員外役員として理事に選ばれている。現場が知りたかった。

同じ会員外理事でも弁護士らは自主規制ルールの策定だとか、苦情・紛争解決などまだ事案があって制裁処理が必要だが、私にはそれがない。必要なのは広報的な視点だろう。

しかし、手振りで取引していた時代とはまるで変わった。とりわけ金融派生商品(デリバレィブ)の取引はコンピューターの中で完結する。人間の目では見えない。

 

ビル1階は賑やかだったが・・・

エレベーターで5階に上がるとそこはギャラリーになっていた

 

■ギャラリーはひっそり

 

とにかくエレベーターで5階に上がるとOSEギャラリーが来館者を迎えてくれる。テレビモニターがどんと置かれていて、先物取引について教えてくれる。

年間を通してイベントやセミナーなどを色々開催しているようだが、こんなに閑古鳥が鳴いているような状況では事前に予約を取って訪れる必要もなさそうだ。

それでも北浜は江戸時代に始まった堂島米市場を起源とし、日本のおける先物取引のメッカと言える地域である。

北浜地区には証券会社や投資関連企業が多く集まっており、デリバティブ市場の中心地といわれている。

昔は確かにそうだったが、今は昔の栄光はどこに行ったのかと心配するほどさびれている。堂島米会所があまりに有名すぎて、その反動で今は青息吐息に陥っているのかもしれない。

 

堂島米市場跡(一粒の光)

 

■先物市場として世界に先駆け

 

何かすっぽかされた感じがしたOSEギャラリー見学だったが、次は気を取り直して堂島米市場(どうじまこめいちば)跡碑を探した。

大阪市によると、江戸時代の初め、各地から選ばれた米の取引は、土佐堀川沿いの北浜の路上で行われていた。

この「北浜米市」は、中心となっていたのが当時の豪商淀屋であったため「淀屋の米市」とも称された。

その後、元禄10年(1697年)頃、交通の妨害になることや、当時開発されたばかりの堂島新地の振興策として、米市は堂島に移されることになった。

享保15年(1730年)、江戸幕府は、ここで行われる正米商い(米切手を売買する現物市場)と帳合米商い(帳面状上で商売する先物市場)を公認し、堂島米市場の相場は、全国の米相場の基準となった。

 

除幕式(2018年10月24日、大阪市北区堂島浜1-3中之島ガーデンブリッジ北東詰)

 

■なぜだか中国産白御影石

 

堂島米市場は「浜方」「大阪米市」とも呼ばれ、日本における取引所の起源とされるとともに、世界における組織的な先物取引所の先駆けとして広く知られた。

昔立派だったことは今も称賛されるべきもので、堂島米会所の跡地(新ダイビルとANAクラウンプラザホテル大阪前)には建築家・安藤忠雄氏がデザインした「一粒の光」と称するモニュメントがあった。

2018年10月24日、大阪市長、安藤忠雄氏ら多数の来賓を迎えて除幕式が行われた。最長3m、直径1.5m、重さ9トンの白御影石は中国山東省から運ばれたという。

 

いつの間にかトンビに油揚をさらわれて(日経)

 

■誰も関心を払わない市場に

 

 

1730年に江戸幕府公認の取引所として組織・整備された「堂島米会所」。世界初の先物取引所と成立したが、その後の歴史はひどいものだ。

農水省、経済産業省の指導権争いもあって、1848年に設立されたシカゴ商品取引所(CBOT)やシカゴ・マーカンタイル取引所(CME)に圧倒されてしまった。

今やCMEグループがCBOTやCOMEX、NYMEXも買収し、いつの間にか年平均30億枚(約1000兆ドル相当)にも及ぶ取引を扱う世界最先端かつ最大の総合デリバティブ市場に成長してしまった。

日本の商品市場は当時、個人投資家中心の市場だったこともあって、紛議も多く、問題を抱える市場だった。

国民の商品市場への視線も厳しく、そのことが行政をして先物市場を軽視し、育てようとする努力を怠ることになった。

今の世界は商品も金融も一緒くたになり、扱う商品はデリバティブ(派生商品)。日本は省庁間の権限争いばかりに精出しているうちにトンビ(米国)に油揚(市場)をさらわれてしまった具合だ。

私も堂島市場をいくら探しても見つからなかった。米国などは隆盛だが、日本は低調極まりない。先物取引は大阪に引っ越しさせて、東京から追い出した。

誰も気にしていない。誰も知らない。このことに誰も関心を払わない。これが日本の先物市場の現実である。

 

特急「こうのとり」が福知山線を走る

柏原駅周辺は撮り鉄の撮影ポイントらしい

 

■予定より早く郷里に到着

 

淀屋橋周辺を3時間ほど歩き回って、また新大阪駅に戻ってきた。コインロッカーから荷物を取り出し、17時の電車に乗ろうと思っていたら、15時すぎ発の「こうのとり15号」に乗ることができた。

福知山線柏原(かいばら)駅には16時25分に着いた。新大阪から1時間10分。篠山口までは電化され複線だが、その先は単線。今も不便ではある。

柏原到着が2時間も早まった。同窓会の事務局長に電話して迎えに来てもらった。国道沿いでふとん屋をやっている。

送迎は軽トラックだった。田舎ではこれが一番便利なのだという。ふとん屋の奥に倉庫があり、電話をもらった時は倉庫の2階で明日の二次会の準備をしていたところだという。

 

 

国道176号線沿いにある和食レストラン「さと」

 

■国道沿いには多くの店が・・・

 

田舎に帰ったら自分の実家に泊まるものだが、実家は田舎ぐらしをしたい人に貸している。貸している以上、名義は他人であり、ちょっと泊まるわけにはいかない。

近くのホテルに泊まった。ビジネスホテルは2軒あって駅に近いほうは満室で、ちょっと駅まで歩けない遠いほうのホテルに泊まった。

友人が夕食に連れて行ってくれたのは和食レストラン「さと」氷上(ひかみ)店。愛媛県の郷土料理「鯛めし」をいただいた。

奥さんをほっぽりだして2人で食事するのも悪いかなと思ったものの、あとの祭り。2時間ほど付き合わせてしまった。

 

■同郷のよしみを堪能

 

同窓会の開始は午前11時。10時頃に同級生の1人が迎えに来てくれた。ベンツに乗って現れたのは洋服屋の元娘さん。神奈川県に住んでいて現在親の介護をしながら自宅の洋品店の店番をしているとか。軽トラとベンツ。えらい違いである。

喜寿(77歳)を祝う中学校の同窓会。220人が学んでいたが、50人が参加した。物故者も少なくないものの、それにしても高い参加率だ。

もう2度と合えないと分かっているのかもしれない。人それぞれ、人生それぞれである。同じふるさとの縁とは嬉しいものだ。同窓の誼(よしみ)を堪能した。

 

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