【帰省】墓参り・借主との会合までは順調だったものの、2男の家でコロナを発症・ノド痛/高熱に悩まされ点滴を打って東京に戻るハメに陥った今回の旅行

墓参り

 

■まずお墓を掃除し、その後墓参

 

大阪府寝屋川市の2男宅に着いたのは3月29日(金)午後9時30分頃。渥美半島で遊んでしまってすっかり遅くなってしまった。

夕食は済ませていくからと連絡がしてあったが、家族総出で迎えてくれた。遅く着いたのに翌日は兵庫県丹波市の実家に早起きして墓参する必要があった。

大阪府寝屋川市から姉の住んでいる大阪府吹田市まで30分ほど。吹田で姉夫婦をピックアップしたあと、箕面とどろみICから新名神高速道路に入った。名神高速を京都→豊中→伊丹→宝塚と走ると名にし負う渋滞区間を通る。それを回避するために箕面と宝塚北ICを作って迂回するコースをとった。

義兄によると、新名神ができて吹田市と丹波市間は30分は短縮できたという。今や高速道路が網の目のように走っている。丹波の山裾のお墓に着いたのは午前10時30分。2台の車に4人ずつの合計8人。掃除も大勢でやると早い。1時間ほどで綺麗になった。

 

この部屋の奥が教室でいろんな物が収納されている

 

■5年ぶりに離れをチェック

 

今回は母家にあった家財類を収納した離れを点検するのが目的だった。田舎暮らしをしたい人に貸して5年間たつ。大切に使ってくれている。

自分たちが住むよりもきちんと使ってくれているのだ。誰も住んでいない家は風も入らず傷みやすい。それを家賃を払って住んでくれている。

こちらからの持ち出しは少なくて済む。電気・ガス・水道など本来なら年間80万円ほどはかかる。それがセーブできる。

それでも固定資産税や火災保険、高木剪定経費などが必要だが、他人に住んでもらうのと空き家にして自分で住むとなるとその差はばかにならない。

5年間、離れには誰も足を踏み入れなかった。風雨があり、廊下も傷みが激しくなっている。家財道具は別状なかったが、建物に構造上の欠陥が表れている。床がブカブカのところがあった。

 

母家と接している離れ

 

■離れは母親が塾として使っていた

 

離れは手を入れないと、そのままでは住めない。この離れは私が大学生の時に建てたことを覚えている。山から丸太を切ってきて皮をはぎ、それを磨いて柱に使った。

1階は塾を始めた母親の教室だった。塾は25年ほど続けた。塾は母親の生き甲斐で、母の塾に通っていたという話を最近でも町で話に聞くほどだ。

2階にも2部屋あって、そのうちの1つは私の部屋だった。ベッドを入れてそれなりに住めるようになっている。

それでも時間がなくて蔵などはチェックできなかった。蔵の中には書籍類が山のように積み込まれているはずだ。庭木もきちんと確かめる時間的な余裕がなかった。

 

お好み焼・鉄板焼「わらい」

 

■姉夫婦もコロナ感染

 

丹波の実家を辞去したのが午後4時30分頃。帰りは先に帰ったこども達とは別に元来た道をたどった。

連れて行かれたのが姉たちの自宅に近い京都・錦市場(通称・錦)生まれのお好み焼「わらい」佐井寺店(大阪府吹田市佐井寺3)。

関西ではおなじみの粉もん文化はファミリー・カップル・友人同士で同じ鉄板を囲むコミュニケーションツール。

どうやら私の食欲は著しく衰え、どうも普通ではなかったようだ。この時には既に発症していたらしく、看板メニューの「わらい焼き」も焼きそばにも食欲があまり沸かなかった。

姉夫婦と我々夫婦が1つのテーブルでお好み焼をつついた。その中の1人が発症すれば、他の人はうつらない方が不思議である。

 

500mlの点滴が効いたのだろうか

 

■ノドが痛くて薬が飲めない

 

この日も2男宅に午後9時30頃に帰宅。それからは発熱と喉痛に悩まされた。こんなに喉が痛いのは記憶の範囲内で覚えがない。熱は39.8度もあった。

そんな中で苦しかったのはノド痛だ。私は持病のために朝食後8種類の薬を飲んでいるが、その薬がなかなかノドが痛くて飲めないのだ。

薬を飲む際に必要なのが水だ。水を頼りに薬を服用する。しかしノドが痛くてなかなか水を飲み込めないのだ。水がノドを通るときに痛むのだ。どんなに効果のある薬でも、水がなければそれを飲めない。そんな辛さを味わった。

2男宅にあった試験薬で検査した結果、コロナの陽性反応が出た。そういうこともあって4月1日夜、寝屋川市の病院に緊急で罹った。

再度検査されコロナと確認された。病室は満床で、様子を見るしかなかった。コロナ専門薬もあったが、私の場合、あまりにもたくさんの薬を飲んでいるので「処方できない」と言われ返された。

 

休憩した新名神の土山SA(滋賀県甲賀市)

ここで食べたきつねうどんがおいしかったことは忘れられない

 

■点滴を打って500Kmを走って東京に戻る

 

2日改めて午前、病院を訪問し点滴を打ち、ノドの痛みも快方に向かったのを受け、急きょ、車で500㎞を走って東京に逃げ帰った。

息子は「こういうこともある」と同情的だったが、奥さんのほうがもっと大変だった。せっかく来てもらっても病原菌を持った病人が部屋の中にどっしりと寝ているのである。迷惑この上ない話だ。

帰ってくれとも言えないし、どうすることもできない。自分たちもこれまでにコロナには罹っている。ひょっとしたらまた罹った可能性も考えられた。13歳のツインの孫は近くの母親宅に避難させていた。

コロナに罹っても発症しない人もいるらしい。特に若い人はその傾向があるという。

練馬の自宅に着いたのは午後9時50分。よくぞ身体が持ったものだ。これまでほとんど何も食べていない。薬も飲まずに自然に治癒する道を選んだ。時間はかかるが仕方がなかった。

味覚障害にも陥った。何を食べても味が濃く、食べたくなかった。普通に戻るまで2週間はかかった。もっとかかっている人のことも聞いている。

みんなにたくさん迷惑を掛けたが、それでも何とか元通りに戻ったことを喜びたい。やはり普通の生活をできるのが一番だ。そのことを今は噛みしめている。

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