ジタバタする男
あと1年で定年を迎える、多少くたびれたベテラン刑事の呼野(別所広司)が捜査を進め、小塚の単身赴任先だった広島支店で、一人の女性・慶子(深津絵里)の存在を突き止める。小塚の愛人だった。定年退職した翌日、小塚が向かったのは金沢だった。慶子も同じ日に、広島から向かう予定だったが、出掛ける直前訪ねてきた元同僚と話しているうちに、ふと気持ちが変わって、金沢行きをやめてしまう。
追ってきた呼野に慶子は「定年すぎたおじいさんと一緒に暮らして、これからどんな展望が開けるんだろうとつい考えてしまった。女として生まれた以上こどもも欲しいし、人並みの生活もなどと思ってしまった。自分の人生をてんびんに掛けたんでしょうね」とつぶやく。時代背景は昭和63年11月から年末年始にかけて。時代が昭和から平成に変わる時期だ。
彼女が口にした「定年過ぎたおじいさん」という言葉が気になってしかたない。小説が書かれた20年前の定年は多分55歳。そうだとすると、「55をすぎたらおじいさん」。世間的にはそういうことなのだろう。世の中全体がそういう見方をしていたということだ。社会がそう見ている以上、見られるほうはどうしようもない。
今の定年は60歳。60歳をすぎても、自分でおじいさんと思っている人はどれだけいるのだろう。世の中はどう見ているのか。世の中がどう見ていようと、そんなことは関係なく、自分がどう思うかが重要だと考えたくなる気持ちはよく分かるが、残念ながら、そうもいかない。
本人の気持ちと社会の見方、受け止め方との間にずれがあるように思う。いくら自分は若いと思っていても、社会や周囲が本当にそう思ってくれない限り、一人合点の思い込み、妄想にすぎない。いくら本人がそう願っても、他人がそう思ってくれないならば、この認識のギャップは消えない。
60歳というのは微妙な年頃である。それまで組織の中でばりばり働き、社会的なポストもあって、それなりの評価を得ていても、ある日突然、組織の中枢から外れるのである。昨日まで部長だった人が一晩明けると、ただの人。その人の中身や実力がたった1日で消えてなくなるわけでもないのに、そういう扱いを受けざるを得ない。決まりごととは言え、何と理不尽なことよ。何とも口惜しいことではないか。
齢をとれば、体力や記憶力も落ちてくるし、スピード感ある環境変化についていけないのは認めざるを得ない。これはいかんともしがたい。判断力だって、過去の経験の陳腐化によって、きちんとできているか疑わしい。定年はこうした肉体的、精神的衰えから作られたもので、それなりに理に適った決まりごとだろう。
問題はこの決まりごとを頭では理解できても、心はなかなか理解できないことである。理解することを拒否しているのかもしれない。時代が若さをもてはやす中ではなおさらである。それでも時代は時代として受け入れるしかないのかもしれない。
60歳から65歳のプレ高齢者時代をどう過ごすか、これがなかなか難しい。65歳以降の高齢者になれば、それなりの覚悟も定まってくるような気もするが、それまでをどういう気持ちですごすのか。自分がそんな齢回りになってみて、考えることしきりである。修行が足りなくて、じたばたしてみたい気持ちを抑えられない。「駅路」を観て、心の底に淀んでいた気持ちが突如、掻き立てられたようである。