【ドライブ】軽井沢の6.4%は西武資本か「サンセットポイントからの眺めは最高やで」

 

軽井沢マップ

 

■軽井沢開発の牽引役・星野リゾート

 

軽井沢は戦前・戦後なら西武グループがゴルフ場開発などで主体的役割を演じたが、戦後も21世紀に入ると星野リゾートがけん引力となっている。星野リゾートは軽井沢を主力に全国展開し、海外へも進出している。

その中心は星野リゾートの創業地でもある1915年(大正4年)開湯の星野温泉だ。草津温泉に逗留した人が仕上げ湯として利用した。その後も北原白秋や島崎藤村などの文人がこの地に逗留し、文化的な香りも創りだした。

ウィキペディアによると、星野リゾートは、本社を長野県北佐久郡軽井沢町に置く総合リゾート運営会社。創業は1904年、設立は1951年となっている。代表取締役社長は星野佳路(ほしの・よしはる)氏。資本金1000万円。

1904年に軽井沢の開発に着手し、1914年に星野温泉旅館を開業した。1951年には株式会社星野温泉を設立し、法人化した。1992年に、所有を本業とせず、運営会社を目指す企業将来像を発表。1995年に株式会社星野リゾートに社名変更した。

1996年にはヤッホーブルーイング設立し、地ビール事業に進出した。2001年にリゾナーレ小淵沢の所有・運営を開始、03年にはアルツ磐梯リゾートの所有・運営を開始、2004年にはアルファリゾート・トマム(現星野リゾート・トマム)の運営を開始した。

11年には界ブランド、リゾナーレブランドを開始。13年には栃木県那須町にある高級リゾートホテル「二期倶楽部」を買収。16年には旭川グランドホテルを買収し、シティホテル運営に参入。17年には星のやバリ開業。

目をこらさないと見えないが、地図上ではハルニレテラス(軽井沢町長倉)は中軽井沢の北方に当たる。湯川の清流に寄り添うように自生していた100本を超えるハルニレ(春楡)の木立を生かしながら、9棟のモダンな建物を広いウッドデッキでつないだ「小さな街」だ。

「軽井沢の日常」をコンセプトにした16の個性的なショップやレストランが別荘ライフを彩る。若い人ばかりが集い、おじさんやおばさんら別荘族はほとんど近寄らないらしい。

 

軽井沢アンブレラスカイ2021

 

■カラフルな傘で飾る「アンブレラスカイ」も

 

それでも若い観光客がどんなところが好きなのか気になって、ハルニレテラスを歩いてみた。

ちょうどテラスでは街並みをカラフルな傘で彩る「軽井沢アンブレラスカイ」が開催されていた。2021年は6月4日~7月11日まで。

心浮き立つ傘のアーケード。100本の傘がハレニラテラスを彩る。花のブーケも飾ってあったが、造花だった。

若い人たちはそれが造花であれ生花であれ、絵になればいいようだ。盛んにスマホを向けてパシャリとやっていた。

冷ややかな大人は「あんな造花を撮って何がいいのかしら」とブツブツ言っている。「ステキ」だとスマホを向ける若者たち。

しかし、多勢に無勢である。それが何でも写メ的にそれがステキならステキなのだ。ステキなのである。

 

丸山珈琲ハルニラテラス店

 

■年間の約半数は産地を巡る

 

丸山珈琲は1991年に軽井沢で創業したスペシャルティコーヒー専門店。代表の丸山健太郎は世界中の農園を訪れ、生産者との交流を大切にしながら、コーヒー豆を直接買い付けている。

「良質な豆を手に入れるためには生産者とのコミュニケーションが最も大切。このコミュニケーションこそが生産者の生活水準を安定させ、美味しいコーヒーを作るモチベーションの向上と品質の維持にもつながる」信念だからだ。

「丸山はこの買い付けのために、1年の半分近くをコーヒー生産国で過ごし、現地生産者との信頼関係を築き上げている」

丸山は焙煎について「産地から直接買い付けたコーヒー生豆の、その素材の持ち味を最大限引き出すことがスペシャルティコーヒーの焙煎の基本です」と言う。

「生豆をおよそ200度で熱すると、表面は焦げ、内部成分は変化していく。この熱によって生豆のもつ特有の味や香りが引き出される」からだ。

焙煎人は酸のキャラクターと香りのバランスを考え、それぞれの豆に合わせた焼き方を選択する。同じ豆でも味の仕上がりは焙煎人によって違いが生まれる。

豆のどの特徴を生かすのか、焙煎人の腕に託されている。

 

小川のせせらぎがまるで聞こえるような湯川

 

美しいグリーン

 

垣根こしに眺める

 

こちらもグリーン

 

■堤が集めた300万坪、軽井沢町の6.4%

 

ノンフィクション作家、宮原安春の著書『軽井沢物語』(講談社、1991年4月刊)によると、「軽井沢の町民が知らない間に、戦後の混乱期、軽井沢の土地の所有者が大きく変わっている」。

1945年9月、戦時中の国策会社の食糧増産株式会社(堤康次郎社長)は武蔵野鉄道、西武鉄道の3社と合併し、西武農業鉄道となり、翌年西武鉄道に改称した。

堤康次郎はこの当時、前立腺肥大を患っており、あまり動けなかった。また46年1月にGHQによって公職追放となった。

「この逆境のときに、彼はやけ跡った東京の土地を買いまくった。まず、池袋で根津育英会が所有していた土地など約1万6000坪を買収。そのうち1万坪を翌年に2倍から3倍の値段で売り払った。残った土地が現在の西武デパート敷地である」

軽井沢にあった朝香宮別荘は、1947年8月14日、堤康次郎の手に渡った。宅地703坪、山林約9600坪である。この別荘を、堤は千ヶ滝プリンスホテルにしたのである。

さらに堤は、軽井沢の根津嘉一郎所有地約110万坪を買収し、48年から開発を開めた。

こうして、千ヶ滝、南軽井沢、根津所有地を合わせて、堤康次郎は軽井沢に約300万坪(約1000ヘクタール)の土地を所有もしくは開発したことになる。軽井沢町の総面積は約1万5600ヘクタール。

「その6.4%は堤康次郎の手中に収まったのだ。この比率はいまでも似たもので、国土計画の関連会社が総面積のうち6.68%を所有している。それを原野などを除いた課税対象地全体でみると、実に17.3%を占める」

 

碓氷峠見晴台

 

左手は群馬県、右手は長野県

 

100年前のタゴールの銅像が建っていた

 

■「サンセットポイント」からの眺めはすばらしい

 

旧碓氷峠見晴台は長野県軽井沢町に碓氷峠の頂上付近、標高1200mにある展望公園だ。南アルプス、八ケ岳、浅間山などが眺望できる。明治時代末期に来た欧米人がたびたび訪れたという「サンセットポイント」からの眺めはすばらしい。

また軽井沢銀座から約4キロに及ぶ遊歩道もあり、軽井沢の自然を感じながら歩くこともできる。結構さみしい場所で、歩くと1時間ほどかかる。車かバスを利用するのが賢い。

江戸時代、中山道の難所として、東海道の箱根の険とともに並び称された有名なところ。せっかく軽井沢に来たのなら、ここを味わなければ軽井沢に来たとは言えまい。

昔の中山道・碓氷峠越えの道は明治17年(1884年)、新国道(現在の国道18号線)の開通によりその使命を終えた。現在では観光客やハイカーが立ち寄るだけの静かな峠となっている。県境をまたぐように熊野神社・熊野皇大神社が鎮座している。

現在の碓氷見晴台と呼ばれる園地は、大正7年(1918年)、名古屋の近藤友右衛門が開発・整備したとして顕彰碑が立っている。

碓氷峠は、中山道坂本宿と軽井沢宿の間の宿として加賀藩など参勤交代途中の大名をはじめ多くの旅人が休息した。峠町には江戸時代、40~60軒あまりの家並みが続いていた。そんな峠で旅人たちを力づけたのが「力餅」。現在も力餅を売る店がある。

 

ここが”旧軽銀座”らしい

 

 

 

 

 

 

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