【山梨ドライブ】「夫婦円満桜」を見たあと「恵林寺」「武田神社」「大善寺」ものぞく山梨名所巡りの春

 

寄り添うように2本のソメイヨシノが咲く「甲州蚕影(こかげ)桜」(笛吹市八代町)(4月1日11時21分)

 

約300本の桜が植えられ地元では「桜の森」と呼んでいるという(同日)

 

ハラハラと桜の花びらが落ちてくる(同日)

 

まことにのどかな光景が広がっている(同日)

 

■八代ふるさと公園の「甲州蚕影(こかげ)桜」

 

中央道の釈迦堂PAで花桃をたっぷり観賞した後、向かったのは笛吹市八代町の八代ふるさと公園。丘陵地帯にあり、南アルプスの山々や甲府盆地を一望できる。天候は上着が要らないほど暖かく、ポカポカ陽気だった。4月1日の山梨は黄砂の中快晴の空が広がっていた。

名古屋から来る友人夫婦と「勝沼ぶどうの丘」で午後3時に待ち合わせ、それまで時間をつぶす必要があった。そこで見つけたのが八代ふるさと公園の「甲州蚕影桜」。公園の中心に咲く2本の大きなソメイヨシノだ。大きな枝を方々に広げ、散り始めていた。

ふるさと公園にはヤマザクラやベニヨシノなど様々な種類の桜約300本が植えられており、夜になると、公園内を淡紅色に染める。古墳広場で夫婦のように寄り添う2本のソメイヨシノはまるで古墳を包み込むように咲いている。

「甲州蚕影桜」の碑に横に「夫婦円満桜」と書かれていた。

この公園は新しいなと感じたが、やはり2014年(平成26年)3月にリニューアル・オープンされていた。たくさんの桜があり、「桜の森」と呼ばれているそうな。「銚子塚古墳」と「盃塚古墳」の2つの古墳が復元されていた。

 

まだ朝早く恵林寺(えりんじ)はびっくりするほどの静寂さの中にあった(4月2日9時34分)

 

織田軍の焼き討ちの際、快川国師が僧俗100余名と「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」と唱え火中で遷化した伝説の舞台「三門」

 

枯山水式の方丈庭園

 

夢想国師の作庭の本質は、眺めて楽しむものではなく、自分と向き合う純粋な修行の場だという(恵林寺庭園)

 

池に散り敷きつめられた桜花

 

恵林寺の前に佇むカフェで一休みする

 

■「武田信玄、夢想国師、快川国師」の恵林寺建立の3傑

 

2日目の午前は山梨県内の名所旧跡を観光することにした。山梨と言えば、武田信玄である。まず訪れたのは武田信玄の菩提寺である乾徳山(けんとくさん)「恵林寺」(えりんじ)だった。

とにかくその佇まいの清楚さに驚いた。特に黒門から赤門(四脚門)に至る参道の静謐さには感銘した。周囲に植わった桜が葉桜となり、はらはらと散っていた。散り敷いた桜の上を歩いて行くのは凜として心が洗われるような気がした。気持ちがよい。

恵林寺は山梨県甲州市塩山小屋敷にある臨済宗妙心寺派に属する寺院。1330年(元徳2)に甲斐牧ノ庄の地頭だった二階堂出羽守貞藤が夢想国師を招いて創建。武田信玄の尊敬を集めた美濃の快川(かいせん)和尚の入山で寺勢を高め、1564年(永禄7)には信玄自ら寺領を寄進し、当山を菩提寺に定めた。

信玄は53歳で上洛を目前に病没し、息子の武田勝頼は1576年(天正4)4月、遺言通り3年間の秘喪の後、快川国師の導師のもと、盛大な葬儀を行った。勝頼は時運を味方にできず天目山下に自刃。甲斐武田氏は滅亡した。

恵林寺は1582年(天正10)4月、織田信長の焼き討ちにあい、快川国師は「安禅必ずしも山水を須(もち)いず、心頭滅却すれば火も自(おのずか)ら涼し」との禅語を残し、100人以上ともいわれる老若男女とともに火に包まれた。

同6月3日、信長が「本能寺の変」によって斃れて後、恵林寺は徳川家康の手により復興され、また徳川5代将軍綱吉の時代に甲斐国主となった柳沢美濃守吉保の庇護で寺運は発展。吉保夫婦は恵林寺を菩提寺として霊廟をもうけた。

庭園は鎌倉時代、夢想国師の作庭で、国の史跡・名勝に指定されている。武田信玄、夢想国師、快川国師を恵林寺建立の3傑と呼んでいる。

 

 

JR甲府駅からほぼ真北に武田通りを上がってくると、花婿が花嫁と一緒に通りを渡っていた

 

さらに武田神社を上がると・・・

 

武田神社がありました

 

■武田氏館跡に1919年に創建された武田神社

 

武田氏館跡は戦国時代に甲府に築かれた甲斐源氏武田氏の本拠地で、居館と家臣団屋敷地や城下町が一体となっている。現在、武田氏館跡(躑躅ケ崎館跡)として国の史跡に指定され、県内には勝沼氏館と並んで資料価値の高い中世城館跡とされている。

甲府市古府中に位置する平城(居館跡)で、現在、跡地には武田神社が立地している。城域の広さは周囲の堀を含めて東西約200m、南北約190m。面積は約1万4000坪(約4万6000平方キロメートル)。

外壕、内濠、空濠に囲まれた三重構造で、中世式の武道館となっている。1543年(天文12)に館の一部を焼失したが、再建されている。現在、跡地は1919年(大正8)に創建された武田神社の境内に当たる。

武田信虎、晴信(信玄)、勝頼の3代60年余りにわたって府中として栄えた。武田氏滅亡後も広域城下町としての甲府や、近代以降の甲府市の原型となっている。

 

この重厚な構えの山門を登ると・・・

 

関東で最古の木造建造物の本堂(薬師堂)

 

5年に一度開帳される秘仏(大善寺HPから)

 

■ぶどう寺とも呼ばれる国宝・大善寺を拝観

 

武田神社からの帰路、「国宝」という文字が目に入った。「国宝」と言われれば、見ないわけにはいかない。拝観料1人500円。真言宗智山派柏尾山「大善寺」だった。手にぶどうを持っており、ぶどう寺とも呼ばれている。

大善寺の開創は718年(養老2)。行基菩薩が日川渓谷岩上で霊夢により感得した像を刻み安置して開かれたと伝えられる。菩薩が感得したのは片手にぶどうを持ち、片手で結印した薬師如来と日光・月光菩薩の薬師三尊。奈良時代には52堂・3000坊を数える隆盛をみたという。

現薬師堂は1954年(昭和29)の根本的な大解体修理で旧観に復され、その翌年に逗子とともに国宝となった。度重なる災禍を逃れて今日に至る薬師三尊像等の諸仏を安置しているという。

 

 

 

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *

This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.