城山三郎『無所属の時間で生きる』

 城山三郎の『無所属の時間で生きる』(新潮文庫)を読んだ。経済小説の草分けである同氏が雑誌に連載(『1冊の本』1996年4月号~1999年3月号)したものに加筆したものだ。

 愛知学芸大で景気論などを教えていたものの、1957年(昭和32年)、『輸出』で文学界新人賞、翌年『総会屋錦城』で直木賞受賞し、30代半ばから作家として独立。彼の言う「無所属」というのは文字通り、どこにも属さないで生きていくことを指している。

 2007年に亡くなるまで40年以上も「無所属」で生きてきた人だから、定年退職により否応なく所属先と少し縁の切れた「にわか無所属」とは年季はもちろん、心構えや覚悟も違う。しかも、こちとら、”無所属”を気取っていても、身分こそ正社員ではないものの、雇用延長による嘱託社員だから、むしろ「有所属」に近い。

 「無所属」で生きることがいかに大変なことか。その大変さが分かっているからこそ、ほとんどの人は組織(会社)に所属し、できる限り、組織にしがみつこうとするのだ。このこと自体は責められることではあるまい。問題はいったん組織に所属すれば、その組織にすべてを絡め取られ、それがすべてになってしまうことだ。少なくても、日本ではそうだ。

 会社の外にもさまざまな世界が広がっている。しかし、その世界に深く関与する余裕などとてもない。会社の仕事をこなすことで精一杯だからだ。朝から晩まで仕事に追われてばかりで、他の世界をのぞいたり、コミュニティー活動に取り組むのは極めて難しいのである。

 しかし、いったん定年を迎えてしまうと、それまでの「有所属」から一気に「無所属」に落とされるのが普通である。好むと好まざるに関わらずにである。問答無用だ。いつまでも組織にしがみつくのは労害だろうから、組織から離れるのはむしろ望ましいことではある。問題はその落差があまりにも大きすぎることだ。

 「会社からリタイアすることが、そのまま社会からのリタイアを意味するわけではない。年をとっても一市民として自身の目標とするテーマを掲げて社会での活動を続けて挑戦していく。一市民として社会に参画することで見えてくる、これまで未体験だった新しい世界がある」(足立紀尚著『定年後のただならぬオジサン』(中公新書ラクレ)。定年シニアの生き方が問われている。

 最後に城山氏の言葉を書き記す。「人生の持ち時間に大差はない。問題はいかに深く生きるか、である。深く生きた記憶をどれだけ持ったかで、その人の人生は豊かなものにも、貧しいものともなるし、深く生きるためには、ただ受け身なだけではなく、あえて挑戦とか、打って出ることも、肝要になろう」。

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