『今日よりよい明日はない』

 玉村豊男著『今日よりよい明日はない』(集英社新書、2009年6月)。ワイナリーを作って数億の借金をした本人が「生涯現役で働き続ける。のんびりするのは棺桶に入ってから」と何かのコラムで書いていたのを覚えている。その生き方に共感したためだ。どういうわけか・・・

 書名になっているのは彼がポルトガル人から教わったという言葉。われわれが身を置いている社会は既に成熟しており、この成熟した時代を生きるには、成熟した老人の知恵が必要で、それを表した言葉が「今日よりよい明日はない」。そう思い定めれば、不確かな未来に心を煩わすこともなく、人生最高の日である今日を心ゆくまで楽しめるというわけである。

 半分納得、半分不可思議ではあるが、心地よい言葉ではある。「人生80年時代に問題なのは、体力のなくなってからもさらに長い時間を生きなければならない、ということ。定年になってからの20年は、『余生』というにはあまりにも長い。もう一度気合を入れなおして、自分の足でしっかりと進む意志をもたなければこなせない道のり」である。そんな時代を生きていく知恵が「今日より・・・」なのだろう。今日をしっかり楽しめ、ということだ。

 玉村氏のは東大仏文科在学中にパリ大学言語学研究科に留学している。フランス文化の影響を強く受けている人物である。エスプリも効いている味わいがある。

・洋の東西を問わず、美少女といわれる女の子がいる。顔はピカピカ、肌はツルツル、目はキラキラ。どうしようもなく美しい。そういう女の子の美しさを、フランス語でボテ・デュ・ディアーブル(悪魔の美しさ)、という。たしかに手の施しようがないほど美しいけど、その美しさは、ほんの数年も経てば失われてしまう、悪魔の悪戯のようなもの・・・。その年齢の美しさはもって生まれた素のままの美しさであって、自分で作り上げた美しさではない、という意味が籠められている。そんなものは、物理的なピークを過ぎたらたちまち衰えてしまう。フランス人は、女性の美しさというのは、自分自身の努力で磨き上げるはじめて表れる、と考えている。美しい女性というのは30代、40代、50代かそれ以上の大人の女性のことで、未成年はもちろん、20代でも前半くらいの女性には、まだそう形容される本当の資格はない。

・フランスには、ワインと女は古いほどよい、という言い方がある。ワインは古いほどよい、女は「年をとっている」ほどよい、いう意味。日本語にでは「古い」というのは、その人の考え方ややり方が古いという意味で、物理的に古くなっている人間をいうわけではない。つまり、日本語には、モノとヒトの両方の「熟成度」を同時に表す言葉がない。日本語には「(人が)若い」に対する反対語が存在しない。日本では「若い」という表現は常にホメ言葉として使われるが、反対語する許されない無敵の存在、ということか。ワインは熟成しておいしくなる。女もそう。女は熟してこなければ味が出ない。

・日本人は、若い、つまり未熟な食べ物を好む。野菜や果実は、できるだけ季節を先取りしたものに人気がある。「旬」と「走り」を勘違いしているのでは・・。日本人は賞味期限や消費期限に滅法うるさいが、これも若いものを好む性向と関係があるのかもしれない。日本人が、新しいもの、若いものをこのむのは、魚を食べているからではないか。魚は新鮮なほどおいしい。また、日本の清酒はワインのように寝かせることをせず、新しいうちに飲むのがふつう。コメも新米がいちばんおいしい。長い間、コメを主食とし、清酒を飲み、魚と野菜を主に食べてきた日本人が、より新しいもの、より若いものを求めるのは無理からぬことかもしれない。

・肉も、ワインと同じように、時間が経つほどおいしくなる。肉を熟成させることを、英語で「エイジング」という。年齢を重ねること、年をとること、古くなること。肉食の文化では、年をとるのはよいことなのだ。肉が時間の経過とともに柔らかくなり、蛋白質が分解してアミノ酸に変化するという現象は、発酵とも腐敗ともいう。同じこと。
肉は血統によって良し悪しが決まる。海を泳いでいる魚の、どれが親でどれが子かわかりますか。魚は一代限り、その場限りの刹那的な存在。過去に遡って家系図を書くことはできない。そんな魚たちに囲まれ、魚を食べて暮らしてきた日本人は、過去を遡って検証することなど端からあきらめているのではないか。

・いわゆる団塊の世代といわれる人たちは、貧しい時代に生まれて社会の発展とともに成長し、国の経済が頂点に達するときに人生のピークを体験し、時代が成熟の時期に入るとともに定年を迎えて引退するという、個人と社会の描く曲線がほぼ完全にシンクロする稀有な幸運に恵まれた世代だった。しかし、幸運は不運でもあった。人生50年時代のマラソンをようやく走り切ったつもりで競技場に入ってきたら、目の前にあるはずのテープははるか遠くに張り直されていたのだから。80年時代はアンチエイジング(老化防止)ではなく、大切なのはエイジング(熟成)。

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