『ジャーナリズム崩壊』

 日本のメディアに対する風当たりが強くなっている。メディア内部からの告発も出ているし、既成の国内大手メディアに属さないメディアからの批判も強まっている。とりわけ、排他的な「記者クラブ」に対する批判は今も止まない。

 本書(幻冬舎新書、2008年7月)の著者・上杉隆氏も批判者の1人だ。批判の根拠は米紙ニューヨーク・タイムズ東京支局記者としての経験から来ている。正論だろう。しかし、米国の事情がすべて正しいとの前提に立っての批判で、批判のための批判に終始していると感じるのは私1人だろうか。

 日本がフリージャーナリズムを標榜している以上、だれにでも取材源へのアクセスを保証するのは最低限必要なことだ。しかし、それが確立している国など、世界広しと言えども、せいぜいアメリカくらいではないか。アメリカの基準から言えば、どこの国だってけしからん、ということになる。

 日本の記者クラブ制度が問題を孕んでいるのは否定しようのない事実だ。しかし、それも一頃に比べると大幅に改善している。完全フリープレスになって、それが本当に国民のためになるのか。フリープレスを持てないことで日本の不利益はなにか。大上段に振りかぶった批判ではなくて、しっかり考えてみる必要があるのは確かだ。

 自分が閉鎖的な既成ジャーナリズムの中でぬくぬくとやってきたことは事実である。最初からその中で生きてきた者にとって、既成の空気を吸うのは問題だといわれても困る。空気は決して既成メディアの独占物でないのは明きらかだ。

 組織から離れた今となっては、上杉氏の指摘は理解できる。組織の媒体に書くスタッフ・ライターではなくなったからだ。書きたいと思っても、媒体がないのである。自分で媒体を探すしかない。スタッフ・ライターでないので、フリーランス・ジャーナリストを名乗るしかない。このフリーランス・ジャーナリストの取材環境が悪いのだ。スタッフ・ライターとは天国と地獄である。

 しかし、よく考えれば、所属する1つの媒体だけでなく、どんな媒体にでも自由に書くことができるフリーランス・ジャーナリストというのは最高のステータスかもしれない。もちろん、媒体が自由に書くことを認めてくれなければ話にならないのは当然である。

 上杉氏は、このフリーランスについて、次のように書いている。

「ニューヨーク・タイムズで記事を書けるということは、米国ジャーリズムではひとつのステータスであるのは確かだ。多くの若いジャーナリストの目標は、タイムズの記者やワシントン・ポストの記者になることであったりするものだ。だがそうした彼らも、最終的な夢となると違う。全員がそうだとは言わないが、フリーランスとして活躍することこそ究極の目標なのだ。タイムズやポストの看板を背負わずとも、自分の署名だけで勝負できるようなジャーナリストになる、それがゴールである。そのためには、自分の仕事をまとめ、形にする必要がある。本の執筆はそうした意味でジャーナリストにとっては極めて重要なのである」

 フリーランス・ジャーナリストを名乗ることは簡単である。問題は勝負する場をいかにして獲得するかだ。これは自分に突きつけられた問題でもある。

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