消えた「耕作放棄地」
前期高齢者になった頃から、いろんなことに腹立ちを覚えるようになってきた。文字通り歳のせいだと思うが、我慢ができない。役所の窓口でも店員の接客でもつい口に出して文句を言いたくなる。その気持ちをこらえるのにエネルギーが必要だ。
「歳をとると自分のことしか考えられなくなる」という。恐らくそういうことなのだろう。これから後期高齢者になっていけば、その度合いが一段とひどくなるのではないかと恐れている。
ただ、個人的なことはともかく、公的なことについては不満や不信ははっきり口にしてもいいのではないか。ただ現実には口にはなかなか出せないので、せめて文章で表現しようと思う。悲憤、憤慨、慷慨・・・。おかしいことはおかしいと指摘したい。
最近ずっと感じているのは政府や政治家は国民の命を守らない。役人・官僚・警察にとって重要なのは組織防衛であり、そのための行動指針は責任回避だと強く感じる。国民の命はそれほど重要ではなさそうだ。真剣に国民の命を守っているとは思えない。そう思わざるを得ない事案がしょっちゅう起こるからだ。
精神衛生対策から、自分で腹の立つ問題を「悲憤・憤慨・憤怒」ジャンルで開陳したい。自分なりのガス抜きでもある。
8月14日付日経朝刊が「消えた耕作放棄地」という記事を載せている。「耕作放棄地」という言葉は農業問題を扱う場合、必ず登場してくるキーワードだが、この言葉がいつの間にか農水省のホームページの主な項目からデータが消えていたという記事だ。
この言葉は担い手不足から農地が耕されないままになっている農業の厳しい実情を示す言葉としてのリアリティーを持っているが、「似たような数字があるので、分かりにくいとの指摘があったから」削除することにしたという。似たような数字とは「荒廃農地」を指す。
「荒廃農地」は「耕作放棄地」より面積が狭く、農地の悲惨な実態を隠す上では重宝なようだ。記事を書いた記者は「荒れ地を狭く見せるためなどの見方も出そうだが、実際はそういう意図はなさそうだ」と農水省側の肩を持った書き方をしている。
耕作放棄地の調査は「すでに作付けをやめた農地を耕作する気があるかどうかを農家に聞いているだけで、どの農地がどんな状態かが分からない。頻度も5年に1回と少ない」。これに対し、「荒廃農地は08年から市町村の職員などが農地を訪ねて調べ始めたのが荒廃農地」とし、実施は年1回で、指標性としてはこちらが高いというのが肩を持つ理由だ。
しかし、「耕作放棄」と「荒廃農地」では言葉の与えるインパクトが違う。前者は担い手が耕作を放棄したという問題の所在が明確だ。これに対し「荒廃農地」は主語がない。誰が放棄したのか曖昧で、責任も不在だ。言葉の持つインパクトが消し飛んでいる。
責任を明らかにすることを極度に嫌う官僚用語の典型ではないか。実情や実態の深刻さをいかに薄めるか。そんな深刻な現実を招いた責任を問われることを極力回避することを考えたためと思いたくなる。
実態をいくら薄めても、改善しない。実態から国民の目からそらすことばかりに頭を使っている官僚の狡猾さを感じる。