【試写会】「こんな時に撮影してんのかよ!」の罵声を浴びながら関東大震災を撮った3人の『キャメラを持った男たち』

映画のパンフレット

 

テーマ:試写会「キャメラを持った男たち-関東大震災を撮るー」
脚本・演出:井上実
製作:村山英世・記録映画保存センター事務局長
7月14日@日本記者クラブ
8月26日よりポレポレ東中野でロードショー

 

■関東大震災100年

 

今年は関東大震災からちょうど100年目に当たる。各メディアが関東大震災について特徴やメカニズムについて大特集を行っている。映画の世界でもそうである。

関東大震災の発災直後、3人の映画キャメラマン(岩岡巽、高坂利光、白井茂氏)が東京を撮していた。撮影者が特定できない状態で保存されていた映画フィルムを、3人の遺族や識者への取材をもとに、誰が、どこで、いつ撮影したのかを特定し、時系列に並べ替えた。当時を振り返る白井さん、高坂さんの音声も収録している。

上映時間81分のうち約4分の1が当時の映像。1923年9月1日の午後0時半頃から9月4日にかけて現在の台東区、墨田区、千代田区などで撮影しており、避難者らから罵倒を浴び、暴力にあいながら撮影を続ける姿も映される。

 

■動画を撮るのがキャメラマン、静止画を撮るのはカメラマン

 

1923年9月1日午前11時58分。マグニチュード7.9の巨大地震が東京、神奈川を中心とする関東地方を襲った。激震は建物を倒壊させ、木造家屋が密集する地域は火災より焦土と化した。関東大震災は10万人を超える死者を出した。

パンフレットによると、当時、記録映画は「出来ごと写真」「実況」と呼ばれ、速報性・真実性が追求される新しいメディアだった。キャメラマンたちはその担い手として被災地に向かったという。

テレビ業界では映像カメラマンのことをキャメラマン、静止画を撮る人をスチールカメラマンと呼び分けているという。動画と静止画で区別しているようだ。

現在、手記や回顧録、遺族たちの証言などによって震災直後を撮影したキャメラマンは3人判明している。岩倉商會の岩倉巽、日活向島撮影所撮影技師の高坂利光、東京シネマ商會の白井茂の3人だ。

 

■「こんな時に撮影してんのかよ!」の罵声を浴びながら

 

パンフレットによると、3人は誰に命令されたわけでもなく、夢中で手回しキャメラをまわした。逃げさまよう避難者からは「こんな時に撮影してんのかよ!」という罵倒や暴力にもあったらしい。映像からは惨状とともに、この災害を残さねばという彼らの強い使命感が伝わってくる。

3人が撮影したフィルムは複製され、バラバラに構成されて全国の映画館や集会場で公開された。そのフィルムのいくつかは世紀を越えて現代に残り、デジタルアーカイブ化が行われている。

アーカイブは、自然災害が多発する日本で生活するわれわれに、被害のすさまじさを伝える記録として、今も生き続けている。

重いキャメラと三脚を持って、キャメラマンは被災地をさまよいながら何を見たのか。撮ったものはどのような映像だったのか。そして残されたフィルムから何を知ることができるのか。

関東大震災を撮ったキャメラマンとそのフィルムが今、われわれに語りかけてくる。

 

■神戸にあった震災キャメラの発見

 

映画に登場する「ユニバーサルキャメラ」はアメリカ製の手回しキャメラで、映画黎明期の主力キャメラのひとつだった。震災キャメラは京都の現像所にあったと言われる。それをコレクターが入手し神戸映画資料館に渡った。キャメラケースに「H・M」とイニシアルがある。

この刻印から『大正拾弐年九月一日猛火と屍の東京を踏みて』(1923年)を撮影したハヤカワ芸術映画製作所の撮影技師、見ノ木秀吉が使用したキャメラと思われる。

映画の製作にあたり、このキャメラを整備し、現在流通しているフィルムを装填して震災100年後の東京を撮影した。フィルムの規格が映画誕生から変わっていないからこそそれが可能だった。

 

■3人のキャメラマン

 

岩岡巽(いわおか・たつみ、1893~1955)。明治~大正期の実業家・梅屋庄吉が設立した映画会社、M・パテー商會で撮影技師となる。その後岩倉商會を起業して皇室行事や大相撲の撮影のほか、報道撮影において高い評価を得ていた。

地震発生時は商會のあった下谷区(台東区)根岸にいた。直ちに周辺を撮影し、人々の喧噪や迫り来る火災などの生々しい状況をフイルムにおさめた。

高坂利光(こうさか・としみつ、1904~1968)。日活向島撮影所の撮影技師。名匠・溝口健二監督のデビュー作『愛に甦へる日』(1923)の撮影を担当した。

震災当日は劇映画を撮影していたが、助手の伊佐山三郎とともに被災地に急行。浅草、日本橋、銀座、日比谷を撮影。9月4日に撮影済みのフィルムを抱え鉄道を乗り継いで、7日に日活京都撮影所で現像、その日の夕方に新京極帝国館で封切り上映。大きな話題を集めた。

白井茂(しらい・しげる、1899~1984)。日本の文化・記録映画界を代表するキャメラマン。松竹キネマ研究所、東京シネマ商會、日本映画社に所属しながら『南京ー戦線後方記録映画』(1938)「信濃風土記より小林一茶」(1941)など、記録映画史上重要な作品を撮影した。

地震発生時は埼玉県熊谷にいて、9月2日からユニバーサルキャメラで撮影を開始。命懸けで被災現場を奔走して撮影を行った。

 

■大正元年に「日活」創設、庶民の娯楽として人気博す

 

関東大震災を記録したフィルムは現在確認できるものとして20数本ある。発見された場所は寺や神社が目立ったという。

白井が撮影した「文部省版」といわれる『関東大震大火實況』は茨城県土浦市の神龍寺に保存されていた。高坂利光が撮影した日活版『関東大震災実況』(1923)は都内大田区の千束八幡神社にあった。岩岡巽版の『想ひ起す帝都の大震災岩岡商會撮影』(1925)は岩岡家から練馬区に寄贈されていた。

大正時代は明治時代に日本に入ってきた映画やレコードといった新しいメディアが大きく成長した時代。大正元年(1912)に横田商會、吉澤商店、福寶(宝)堂、M・パテー商會の4社が合併し、日本活動写真株式会社(日活)を創立。

映画は「活動写真」と呼ばれ、庶民の娯楽として急速に人気を博した。東京浅草六区、京都新京極には映画館が集まり、国内外の新作が封切られ活況を呈した。

 

参加者との質疑応答に答えた井上実氏

 

■裏付けの取れたのがこの3人だけだった

 

作品の脚本・演出を担当した井上実氏は試写会終了後の質疑応答で、「今年は関東大震災からたまたま100年目の節目の年であり、こういう映画が作られるのに100年かかったのかもしれない。フィルムの誕生から127,8年たっているが、こういった形で残り、しかも現在の映像を加えて構成しても1本の映画になり得る極めて優れた素材である」と語った。

井上氏は今回の作品について、「関東大震災がテーマというよりも大震災を撮ったキャメラマンとフィルムがテーマで拍子抜けした方もおられるかもしれない」と断ったうえで、「映像というメディアは絶えずその時代ごとの現在地を取り上げている。映画史について考えることと近現代史について考えることとは同じことだと裏のメッセージとしてこの作品を作った」と述べた。

関東大震災フィルムについては現在分かっているだけでは26本現存。フィルムは複製するメディアなので撮影時間的には分からない。いろんなところに重複映像がたくさん使用されているからだ。

国立映画アーカイブによると、判明している映画会社は45。ところが裏付けがどれも取れない。唯一、遺族の証言や個人の手記などで確認が取れたのがこの3人だった。どこかに眠っている映像などがあるかもしれない。

この3人の背後には裏付けがないという理由だけで埋もれてしまった記録者がいる。なかには亡くなった人もいる。「記録って残っているからたどれる面と記録の背後にある予感させる力もある。3人を取り上げることで、他に多くの記録者たちがいることを感じていただければ幸いだ」と井上氏は述べている。

 

■予告編

 

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