国会図書館に行く

通り向こうの国会議事堂に日の丸がはためいていた

 

国立国会図書館東京本館に行った。過去に何度か利用しようとしたことがあるが、あまりの使い勝手の悪さに閉口して、連続して使用しようという気になれない。うまく利用できないのは図書館のほうに非があるのではなく、恐らくこちら側にあるせいなのだろうが、なぜそうなのか分からない。

今やどこもかしこもデジタルばやり。国会図書館も「利用による原本の劣化を避けるため、蔵書のデジタル化を積極的に進めています」。今年から入館するには「登録利用者カード」が必要になった。館内では、利用者端末を利用して資料の検索や閲覧の申し込みをする。

しかし、雑誌のなど、デジタル化された資料は端末上で閲覧することを余儀なくされる。デジタルではなく、原本で読みたいのでわざわざ国会図書館にやってきても、結局、自宅の端末と同じデジタル画面とにらめっこしなければならない。現物をめくりながら、その肌触りや余白を眺めながら、知的連想・着想を期待する向きはここで気分が萎える。知的連想が湧かないのだ。

館内は広く、快適だが、デジタル化されることが知的活動を活発化するかというとそうではない。むしろ画一化するのではないか。図書館の良さは気楽に原本に触れることができ、自由にイマジネーションの世界に遊べるところにあるのではないか。原本と知の格闘をすることで、新たな知を創造することにつながる。そんな格闘場としての機能も有していたのではないか。

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