小沢一郎氏の力の源泉

  民主党の小沢一郎幹事長は今や稀代の大スターだ。活躍の舞台はこれまでもっぱら政界だったが、今や政界だけにとどまらず、世間の誰もが一挙手一投足を注目する国民的スターにのし上がった。政権与党の最高実力者の立場を握った人物の一言で、われわれの生活が決まる以上、関心を持たざるを得ない。

 鳩山新政権の政権運営に不安定・不安感が付きまとっているのは未経験がなせるわざで、ある程度寛容の精神で受け止める必要があるとは思うものの、カネの問題で、政治家・政党としての資質が問われるとしたならば、厳格に問題視されて当然である。政党・政治家の倫理観そのものが疑われるからだ。

 小沢氏が問われているのはまさしくこのカネの問題である。自身の資金管理団体「陸山会」の土地購入をめぐる不透明なカネの流れだ。小沢氏はちょうど今、この問題について、東京地検特捜部の事情聴取を受けているころだ。

 聴取の結果はいずれ明らかになるにしても、気になるのは検察の捜査に対する民主党側の動き。マスコミ報道に対する批判が噴出する一方、自ら問題を解明しようとする努力が事実上、全く出ていないことだ。公訴権という巨大な権力を有する検察を批判するのは自由だが、自ら真相を解明しようとする自浄作用が働かないのはよく分からない。

 人は自らの問題点を指摘され、批判されるのはどうしようもなく辛いものである。否定されたも同然と考えるからだ。それでも、外部からの指摘が的外れと思うならば、真相を自らの手で解明しようという気持ちが沸々と湧いてきて当然である。反論するためには、きちんと自己調査を行うはずである。

 自分のことでなくても、自分の属する組織や団体が批判を浴びれば、自分たちの手で何とか真相を突き止めようと動くのが普通である。捜査当局とは違った真相の解明の仕方があるはずだ。もちろん、身内の批判・非難・糾弾は認めたくないものだ。

 しかし、投げつけられた疑念を自らの手で晴らす努力を放棄したように思える民主党の姿は異様としか思えない。党内で侃侃諤諤の議論が巻き起こって当然なのに、金太郎飴のように、党内結束して、検察・マスコミと対決する姿勢には驚きを隠せない。

 民主党という政党は自由な言論を認める民主的な政党と思っていたが、どうもそうではないことを満天下に暴露したのではないか。党内での自由な言論を封殺した独裁的な”小沢私党”のように見える。これにはびっくりした。中にいると、自分の姿が見えなくなるものなのか。

 なぜ、こんなことになってしまったのか。なぜ、民主党は民主主義を否定する政党と化したのか。自由を失ったのか。金縛りにあったかのような言語障害に掛かってしまったのか。同志を守るのは人として重要なことだが、無批判的に守るのは合点がいかない。

 日本の政治はもう10年以上も前から、小沢氏を中心に動いているようである。自民党政権を一度つぶし、政界再編を仕掛けたのも小沢氏だし、自民党を政権の座から引きずり降ろしたのも小沢氏だ。すべてはこの人物を中心に動いている。

 小沢氏がなぜ、常に日本の政治の中心に居合わせることができたのか。その力の源泉は何なのか。選挙に強いのはなぜなのか。人の心をつかむような温かさを感じるようにはとても思えないあの人物のどこに、人々はひれ伏すのか。彼の政治理念や政治観に信服するのか。吸い寄せられるのか。

 小沢氏は政治家としては致命的なほど口べただし、不器用なように思える。1980年代後半、ロンドンでの首脳会合で、彼が官房副長官として記者ブリーフィングを行った際、その場に居合わせたことを思い出す。「ずいぶんえらそうな人だな」と感じたことを覚えている。まだ若くて、勢いがあった。

 口べたで不器用な政治家が、政界の頂点にまで登り詰める上で有効な武器とは何か。どういう能力を駆使したのか。自分の選挙に強いのは当然のことながら、他人の選挙にも強くなければならない。党の選挙を勝利させる力がなければならない。選挙は政策で勝つのではないのかもしれない。人間的魅力で勝つのでもないのかもしれない。

 選挙はどんな武器で戦うのか。政策で戦うのか。人間的魅力で戦うのか。もちろん、総力戦だから、あらゆる戦略・戦術・武器を駆使して戦うのだろう。大きな戦略が必須だ。弁論・個性も必要だ。武器の優劣も重要である。

 オバマ米大統領が勝利したのは弁舌にうまさに加えて、カネの力も大きかった。大口献金者の資金提供もあったが、インターネットを通じた小口献金のほうが多かった。小沢氏の力の源泉も同志の選挙を支援できるだけの潤沢なカネの力だったのだろうか。誰がそれを供給したのだろうか。

 カネの力は偉大である。何をやろうにも、資金の裏づけがなければ、どうにもならない。政策立案力、構想力も重要だが、その実行力を担保するのは資金である。各種政治組織が雪崩を打つが如く、政権与党になびいているのは予算という巨額の資金が欲しいためである。

 その予算の分配権を握る人物に個人や組織が群がるのは自然な姿だ。自民党時代もそうだったし、民主党に政権が交代すれば、その民主党に人心がシフトするのは理に適っている。これは日本だけでなく、米国だって、ロシアや中国だって同じ構図である。

 げにおそろしいのはカネである。カネがあれば、ある程度、自分の夢を実現できるからだ。普通の人は、そう思っても、それほど強い執着心で、夢を実現しようと思わないものである。夢を実現しようと思っても、策略・謀略・権謀術数や武器としてのカネを駆使しようとまで考えない。

 多少は考えるにしても、それを実行するに当たって、あまりにも多大な労力を必要とすることに嫌気がさして、たいていは途中であきらめるのがほとんどだろう。自分の限界を感じ、それに甘んじて、さっさと戦線を離脱する。膨大な労力を費やしても、成功する保証がないばかりか、敗北すれば、自分を待っているのは徒労感と多額の借財である可能性があるからだ。賢い人ほど、そんな苦労をあえてしない。

 しかし、中には、自分の夢や理念や信念に最後まで命を賭ける稀有な人がいないわけではない。世に出た人というのはほとんどがそうではないか。自分の欲望が並外れて強いのだ。イチローやマツイだってそうだ。天才ではあるが、それ以上に努力家だ。普通の人は途中であきらめる。

 政治家になりたいと思ったことが一度もないので分からないが、政治家は自分の考えを地方規模、国家規模

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