『ノンフィクションは死なない』

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書名:『ノンフィクションは死なない』
著者:佐野眞一(ノンフィクション作家)
出版社:イースト・プレス(イースト新書2014年12月15日初版第1刷発行)

 

著者の本は結構たくさん読んでいる。自分がジャーナリストで、事実の核心に迫る取材手法や1冊の本にまとめ上げるアプローチなどが仕事にも参考になるからだ。

彼の本を読んだからと言って、その通りの取材や本を書けるわけではないが、一応彼の思考過程、取材経緯をトレースすることができるのが興味深い。

この本はたまたま八重洲ブックセンターで他の本を探していたときに、目に止まった。最近の新書の内容の無さにがっくりきている者としては見過ごすこともできたが、いずれノンフィクションを書きたいと思っていたこともあって、取りあえず買った。本を買って、著者の仕事を支援する意味もある。

予感通り、内容はそんなになかった。「日本維新の会」代表(当時)で、大阪市長の橋下徹の人物論を「週刊朝日」で連載開始(2012年)したものの、橋下氏による差別抗議を受け、連載は1回で中止となった事件への言及が主要テーマだ。

本はこの「週刊朝日問題」の顛末と、それに対する自分の言い分を展開している。彼なりの言い分が書かれているが、ほとんど言い訳ばかり。自分の正当性を主張することに終始している。ノンフィクションライターとして新たな1歩を踏み出すための決意表明だろうが、こういう文章はあまり読みたくない。

佐野氏にはそういう発表の場が必要だったのは分かるが、本にする必要はなかったのではないか。雑誌で見解を表明する程度で良かったのではないか。佐野氏はこれまで良い仕事をたくさんしてきているだけに、彼の業績を汚すように思えてならない。

それはそれとして、佐野氏のノンフィクション作家としての考え方、仕事の仕方には学ぶべきものが多い。以下引用してみたい。

■「私が人物評を書く場合には鉄則がある。テーマとする人物の思考や言動はもちろん、生まれ育った環境が文化的、歴史的背景を取材し、ルーツを探り、その成果を書き込むということである。歴史的背景まで吹き込むことで該当の人物を等身大に描き、そのことを読者に伝えることが書き手としての使命だと考えているからである」

■「これまでアームチェア・ノンフィクションをバカにしながら、自分が座学の書き手となっていた。そのツケが回ってきた。過ちは過ちとして反省したい。…戦後、メディアの危機がこれほど叫ばれる時代はない。多くの雑誌が廃刊となり、長いものには巻かれろ式の大政翼賛会的な風潮が日増しに蔓延っている。その象徴が当時の橋下徹だったように思える。インターネット社会もそれを加速させた。真偽の入り交じった匿名情報がインターネットに氾濫し、それに比例して言論機関はますます存在意義を失っていく。こうした物言えば唇寒しの現状に対して、私には大いなる危機感があった。…こうした言論状況にあって、現場を丹念に歩くことでしか書きえない、インターネットでは絶対に書き込むことができないオリジナルなノンフィクションがますます必要とされる時代と言える。そういう作品こそが、いまという時代を鮮明に伝えるからである。私は針の筵に座るのを承知で調査報道の原点に立ち戻りたい」

■「ものを書く人間にとっていちばん大切なことは、内部に抱えたモチーフの切実さである。…私にとって中内ダイエーは個人史にもつながる骨がらみのテーマだった」

■「現場に行って、その目で見て、歩いて考える。これはノンフィクションの原則だが、そのための基礎訓練は必要であり、きわめて大事なプロセスだと思う。…『見る、聞く、歩く』、これがノンフィクション・ライターにとって大切だと体で知ることができた仕事だった」

■「ノンフィクションの場合、重要なことのひとつに『自分のなかから自然に発露するテーマを見つける』ことがある。テーマは自分のなかに眠っている」

■「自分がどんな問題意識を持ち、何を問題と思うか、もう一度、突きつめて考える。そこからどういう取材ができるか。そのうえでターゲットさえ決まれば、あとはどこまでできるか。ノンフィクションのテーマはいくらでもある」

■「さらに問題なのが、大メディアの論理にフリーランスも追随してしまうことである。いまのノンフィクションがつまらない最大の理由がここにあるのだが、同じようにやろうとしても組織メディアの物量作戦にはかなわないのに、なぜか同じ土俵に上がろうとする。組織記者たちとはまったく別の、自分たちだけの視点を持ち、問題意識をぶつけていくことこそ大切だと思うのに、それをしようとしない」

■「いま出版関係者が真剣に考えなければならないのは、技術論でも著作権の問題でもなく、『本』の最大の生命線であるコンテンツの質を高めていくことである。これは紙や電子を問わない」

■「ノンフィクションは目と耳と足で書く文芸」

■「山崎(豊子)作品はあくまで事実をもとにした小説である。本人も生前、『ノンフィクションを書いているわけではない』と断言していて、ノンフィクション原理主義ではない。…ノンフィクションは彼ら(編集者)の言う『制約』があってこそ成り立つものである。だからこそノンフィクション・ノベルの氾濫はノンフィクションの危機でもある。…私の経験則としてノンフィクション・ノベルは創作であり、想像であり、後生の資料としてもまったく使えない代物である。別に作家たちが悪いわけではないが、結局はノベルである。もっと簡単に言えばイージーな方法だと思っている。手を使ったサッカーが反則なように、ノンフィクションも”手”を使ってはいけない。要するに制約が多いからこそのノンフィクションであり、イージーではいけない、ということである」

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