『知的余生の方法』再読:知的好奇心こそ人間の最も人間らしい行為であり「余生」を修正するのも面白い

 

知的余生の方法

 

立花隆の『知の旅は終わらない』(文春新書)を読んでから、自分の周りにある「知」に関する名著が気になり始めた。いずれも昔に読んだ本で、既に自分の周りから姿を消しているものも多い。

そんな中で書棚からたまたま渡部昇一氏の『知的余生の方法』(2010年11月20日発行)を見つけた。このブログで検索すると、やはり読んでいた。「渡部昇一氏と言えば、名著『知的生活の方法』で一生を風靡した英語学者だ。梅棹忠夫氏の『知的生産の技術』とともに、知的生活を実践しようと考えた者にとってバイブル的存在だった」と書いている。

『知的余生の方法』は『知的生活の方法』の34年後に書かれたものだが、知的ブームに侵された者にとっては読まずにおれなかったということだろう。とにかく知的な生活、知的な人生は知的な生き方を目指す若者にとって目指すべき1つのテーマだった。『知的生活の方法』は見つからない。

 

■規則正しく仕事をし、規則正しく散歩をする

「私は、95歳まで生きようとこれまで提唱してきた。この提案は、知的生活を送るためには何といっても、『フィジカル・ベーシス』(肉体的基盤)が必要だと思うからだ。どんなに意気込んでも、寝込んでしまっては何もできはしない。老いてからは若い時の何倍も”フィジカル/ベーシス”が重要になる。肉体的な健康が”知的生活”の基盤になる」と書いた。

95歳を過ぎたと思えない漢字学者の白川静先生との対談で、「たまには温泉や旅行などに出て気張らしでもされるのですか」と尋ねると、「そういうことをやると、かえって続きません」と答えられた。毎日規則正しく仕事をし、規則正しく散歩をすることが「健康の秘訣だ」とおっしゃった。集中力こそ脳の力だという。

白川先生の健康法は「規則正しく」ということ。規則正しい散歩はのため、規則正しい仕事はのためだ。

知的性格を衰えさせないためのフィジカル・ベーシスは、知的なことをやる量がどれくらいかということではなく、毎日毎日規則正しく一定の分量をやれるかやれないかにかかっている。命とは継続であり、脳にとっても「継続は力なり」ということだ。

 

■老人にも適度なストレスが必要

 

「老人が転ぶことは本当に危ない。もっと正確に言えば、転ぶことにより、転んだ結果、脚や膝を痛めて、寝込むことが恐ろしい。脚の筋肉は使わないと急速に衰える。歩けなくなる。そして寝たきりになる・・・というのが恐ろしいのである」

「脚の筋肉を衰えさせないためには、毎日少しでも立って歩かなければならない。脚に重力によるストレスを与えなければならない。胎児は母胎の中では宇宙飛行士みたいに無重力状態に近い。しかし生まれれば1Gという単位の重力がかかる。体に対するすごいストレスなのだ。われわれは1Gのストレスに適応して生きているのである。

つまり、赤ん坊が生まれて成長するということは、無重力から脱して、「Gの重力が与えるストレスに適用してゆくということになる」。正常なストレスは正常な成功に絶対に必要なのだ。

脳も人間の肉体の一部であり、その能力の発達にもストレスが絶対必要である。世界的な数学者の岡潔氏は、10代の頃には血を吐くくらい暗記に努める時期がないと知力が本当には伸びないという主旨を語っておられた。若い頃に強いストレスを脳に与えないと優秀な脳に育たないということだ。

しかし、「ストレスは悪」と受け止める人も少なくない。ストレスのない世界など存在しない。世界はばい菌に満ちている。その中で人間は生きているのだ。リスクも同様だ。ノーリスクの世界などない。どこでも何にでもリスクが存在する。必要なのはストレスやリスクと毅然と闘う姿ではないか。

「近頃はストレスを避けるのを善と考える風潮が強すぎるのではなかろうか。学問の研究成果でも、芸術作品でも、企業の立ち上げでも、大きなストレスの結果としてのみ、生まれるものである」という。

現在の英語教育についても「一番大切なことは忍耐、つまりストレスに耐えることの重要性を教えることだと言っている。忍耐や我慢なくして外国語で本を読んだり、手紙が書けるようになるわけがないのだ」と主張する。

 

ストレスと生産性

 

ストレスには過度と適度がある。カウンセリングルーム「アンフィニ」のブログによると、過度なストレスは集中力の低下、不眠、吐き気、呼吸の苦しさ、食欲不振、疲労感や倦怠感などをもたらすのに対し、適度なストレスだと集中力の向上、活力の向上、人生への充実感の向上、思いやりや社会性の向上、能力パフォーマンスの向上をもたらす。

「適ストレス」は人それぞれ。明確な量も測れない。漫然と上記のようなチャートが考えられる。ただし、そのラインを引き上げることはできる。

要は「老人にも適当なストレスが必要であろう」というのが結論のようである。

 

■余生を過ごす場所について

 

定年退職後の生活地として、かつての「ふるさと」が望ましいのか。確かに空気はおいしいが、いくら空気を食べても満足感は得られない。しばらくはよくても、長く生活していると、死ぬほど退屈になってくる。老人だから、余生は静かでのんびりした場所でというのは間違いで、年をとったからこそ、刺激のある便利なところというのが案外正解なのではないか。

渡部教授の恩師のシュナイダー先生の奥様も「田舎などに帰っては絶対にいけません。そこで静かに生活するなどということは単なる夢です。あなたの思い描いている田舎では、もうあなたの世話ができる親も死んでしまっているうえ、身内もいない。知人も少ない。それに比べ、あなたはミュンスター大学に長年奉職してこの大学街で多くの知人・友人に恵まれているではありませんか。私がいなくなったからといって、この町を離れるなんて絶対にしていはいけません。この町でこれからも生活してください」と夫を戒めた。

今やホームも崩れつつあるようだが、ローマ時代からのことわざ「Ubi bene,ibi patria」(英語に直訳すると、Where well,there home)。つまり自分がうまく生活しているところ、そこがホーム、つまり自分の「ふるさと」「故国」だと言う意味だ。

田舎から東京へ出てこようが、あるいは、日本から海外へ移住しようが、そこで成功し、そこでいい生活を送っているのなら、その土地こそが「ふるさと」なのだ。定年退職したからといって、すぐに「するさと」へ帰るか、などと考えるのではなく、都会でうまく生活しているのなら、都会が自分の「ふるさと」だと腹をくくるべきだろう。

 

■早起きと朝寝坊

 

夜型人間は、必ずしもダメな人間ではない。夜の生活が出来るうちは現役だ、と考えたほうがいいだろう。無理して早起きすることはない。諺ではいろいろ言われているが、必ずしも朝寝することが悪いことではないことに気付いた。それ以来、私は、朝は割とゆっくりしている。もっとも私は午前2時から3時頃にベッドに入ることが通例だ。

朝型かそうでないかは、人によるだろう。早起きが3文の徳になる人もいれば、そうはいかない人もいる。だから、定年退職して田舎に引っ込み、畑でも耕して生きていこうという人は別にして、都会に暮らしているのなら、早起きにこだわることはない。

朝寝坊したいと思うくらいに何かに集中することが、定年後も大切になるということなのだ。ある意味で、定年後にもやりたいことのある者は朝寝坊したいと思うような人であり、定年後にやることのなくなった人は、早起きして朝の散歩しかやることがない人になりやすい、と言えるかもしれない。

重要なのは自分のバイオリズムに従い、生理的な時間を有効に活用することだ。

 

 

 

 

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