津波と菜の花

 東北道を大和ICで降りて9号線(吉岡街道)を東に30分ほど走ると宮城県松島町に着く。5時を過ぎてまもなくだったのでどこも開いている店などなし。町中は一見したところ特に大きな被害はなさそうだった。しかし、海岸線沿いに奥松島の方向に車を走らせ、東松島市に入ると様相が一変した。

 

 少し海寄りの道に入ると、目に飛び込んできたのはひっくり返った乗用車や1階部分が無くなった住居など目を覆わんばかりの津波の爪痕だった。テレビの映像では嫌になるほど見せつけられた姿だが、すさまじい破壊力としか言いようがない。

 地震発生からもう2カ月。道路は綺麗に片づけられていた。恐らく直後はもっとひどい惨状が広がっていたにちがいない。住居も市街地ほど密集していたとは思われない。それでもこんな状態だ。海のすぐそばを走るJR仙石線の被害が大きかった。車で走っていても見て取れた。特に東名駅は線路、駅ともに壊滅状態だとされる。

 松島に戻る道端で見掛けたのが鮮やかな菜の花畑。松島古浦農村公園(松島町手樽字七十里五九番地)と書かれたバス停があった。松島町が定めた農村公園条例に沿って設置された同公園の1つだ。

 宿泊予定のホテル大観荘は復旧活動の拠点になっていた。6時前にホテル前の駐車場に戻ると、既に食事を済ませ出動しようとしている復旧支援メンバーの姿があちこちに見られた。100台近い車が駐車していたが、県外ナンバーが多い。「復興支援」と書いたステッカーを張った兵庫県姫路ナンバーも見掛けた。

 千葉県警が何十人も要員を送り込んでいたほか、ホテル内には自治労本部が事務局を設置していた。6時30分ごる、ホテルの大広間で朝食を食べる。一緒に食事した客はほとんどが復旧支援に駆け付けた関係者だった。

 9時発の丸文松島汽船の遊覧船に乗った。松島湾内を巡る50分のコースだ。湾内に浮かぶ島は260余島。自然の芸術品のような島々にはみんな名前が付いているが、あまりに多くてとても覚えられない。丘陵地が海に落ち込み、その頂が島として残ったという。これほどの景観はなかなか見られない。

 今回の地震でもちろん松島湾にも津波が押し寄せたものの、これらの島々が防波堤となって、少なくても中心部の松島桟橋あたりは浸水したものの、住居や施設が根こそぎ津波に持っていかれるようなことはなかったと遊覧船のガイド役を務めた船長夫人は言う。遊覧船を早期に再開できたのはそのためだという。


                  (塩竃市街)

  塩竃(しおがま)は最近、すしの街としてめきめき売り出し中で、1平方キロ当たりの寿司店の数は日本一ともいわれていた。ビジネスマンの仙台出張の楽しみは松島のカキと塩竃のすしだったという。この塩竃市街は遠目には整然と建っているように見えるものの、船長夫人によると、海べりは大変な被害を受けているという。恐らく1階部分はがらんどうになっているのだろう。

 松島湾は浅く、特に水道部の深さは2m程度らしい。松島と言えば、牡蠣と海苔だったが、津波で養殖業は大打撃を受けた。1年前のチリ地震でも津波被害を受け、再興に動いたばかりだっただけに、相次ぐ試練に見舞われた格好だ。

 松島には奥州一の禅寺といわれ、伊達正宗の菩提寺でもあった国宝・瑞厳寺がある。天長5年(828)、慈覚大師の創建と伝えられる。寺は無事だった。

 東松島市の東に隣接するのが石巻市。宮城県では人口16万人と仙台市に次ぐ都市。東北電力女川原子力発電所のある女川町は東隣りだ。金華山沖は黒潮(暖流)と親潮(寒流)がぶつかる世界3大漁場の1つ。水産業の拠点だ。しかし、今回の津波の被害は甚大だった。

 石巻港に面した一帯は壊滅的被害を受けた。道路の両側は瓦礫の山。無残な姿を見せていた。その中で目にしたのはがんばろう!石巻」の看板。そのそばで5匹の鯉が勢いよく泳いでいた。復興への証のように。松島の船長夫人の言葉を思い出した。「松島は復興の第1歩を歩きだした。ぜひ全国の皆さん、おいでください。このことをお伝えしていただきたい」。

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