2010年2月 のアーカイブ

津波情報

カテゴリー: 東京日誌Ⅱ

2010/02/28  14:41


 カリブ海のハイチで今年1月12日に大地震(マグニチュード7.00)が起きたばかりだというのに、2月27日午前3時34分(日本時間同日午後3時34分)、今度は南米チリでM8.8の巨大地震が発生した。震源地は同国中部の第2の都市コンセプシオン市から北北東へ115km、深さ35kmの太平洋沖合い。

 この地震により発生した津波が日本を襲ったのは28日午後。岩手県久慈市の久慈港と高知県須崎市の須崎港で最大1.2mの津波が観測された。今のところ、津波による被害は報告されていない。

 高嶋哲夫著『M8』はM8規模の直下型地震が東京で起きた場合を想定したシミュレーション小説だが、それを読んで以来、M8=巨大地震という連想がすぐ働くものの、Mの大きさと被災の程度は一致しない。海上や人口密度の低いところに起きれば、そんなに被害が広がらないからだ。Mは小さくも、直下型だったりすると、被害は大きくなるのが当然だ。

 今回のチリ地震はM8.8だから、巨大も巨大である。陸地から100キロ以上離れていても、既に300人以上が死亡、被災者は200万人を超しているという。今後、被害はもっと拡大する恐れもある。直近の日本での大地震は1995年1月17日の阪神・淡路大震災。M7.3で、2003年9月26日の十勝沖地震のM8.0より小さいが、都市直下型だったので死者・行方不明者6437人と被害は大きかった。

 チリ地震と聞けば、即座に思い出すのは1960年(昭和35年)5月のチリ沖地震。M9.5の超巨大地震だった。このときも遥か太平洋を越えて、津波が日本にまで押し寄せた。12歳くらいだったが、よく覚えている。

 吉村昭著『三陸海岸大地震』(文春文庫)によれば、「5月21日、気象庁は、南米チリの大地震をとらえ、つづいて23日午前4時15分、4度目の地震がきわめて激しい地震であることも観測した。さらにその地震によって起こった津波が、太平洋上にひろがり、23日午後8時50分頃にはハワイの海岸に襲来、60名の死者を出したことも承知していた。しかし、気象庁では、チリ地震による津波が日本の太平洋沿岸に来襲するとは考えず、津波警報も発令しなかった」。その結果、死者の数は105人。流失家屋は1474戸に上った。

 同書によれば、「太平洋をはさんで南米と日本は向かい合った場所にあり、ことに三陸沿岸は、たとえ1万8000キロの距離をへだててはいても、チリ沿岸の湾曲線からはじき出された波動を最もよく受ける所に位置している。チリで発生した波は赤道を越え、その勢いを衰えさせることもなく三陸沿岸に到達する。しかも三陸沖合は深海なのでエネルギーの損耗も少なく、大陸棚の上をスムースに越えて沿岸に寄せてくるのである」

 地震は嫌いである。何といっても、地面が揺れるのは根源的な不安を呼び起こす。存在自体を不安の底に落とし込む。一刻も早く、何とかして欲しい。されど、こんなに頻繁に起こるのは何としたことか。ちなみに過去の大地震は以下の通り。

・2010.2.27 チリ沖地震             M8.8
・2010.1.12 ハイチ地震             M7.0
・2008.5.12 中国四川地震           M8.0
・2007.8.15 ペルー地震             M8.0
・2007.4.2  ソロモン諸島沖地震        M8.1
・2004.12.26インドネシア・スマトラ沖地震   M9.0

春季投資セミナー

カテゴリー: 講演会/シンポ/セミナー/勉強会

2010/02/27  15:36


 証券知識普及プロジェクト(東証、大証など証券関係団体による証券知識の普及・啓発事業)主催の「春季投資セミナー」が東京国際フォーラムのホールB7で開催された。ベストセラーになった『国家の品格』の著者、藤原正彦お茶の水女子大学名誉教授の「日本のこれから」と題した講演と川村雄介長崎大学経済学部教授と佐藤まり江キャスターによる対談の2本立て。

 藤原氏の言いたいことは極めて単純かつ明快である。「改革、改革で、日本の国柄(くにがら)は完全に壊されてしまった。日本が世界に誇った初等教育、医療制度、終身雇用を柱とした日本型資本主義、美しい情緒と見事な美的感受性をあっというまに失った。その結果が今の日本を覆う惨憺たる現状だ。これらを取り戻さなければならない」。

 「日本は断トツに世界で一位でなければやっていけない国だ。脳みそで戦うしか生きる道のない国だ。日本は普通の国になってはならない。絶対の国にならなければならない」のに、うまく騙され、自信を失い、萎縮し、今や世界の成長からも置いてきぼりを食っている、と藤原氏は手厳しい。

 こんな惨状を招いたのは誰のせいでもない。ほかならぬわれわれ日本人自身だ。そう考えたほうがよいのではないか。悪賢い強欲金融資本主義者らのデマゴーグにうまく乗せられ、額に汗して貯めた虎の子も今や米財務省証券に塩漬けされ、苦しみ泣いているのは資金を貸した日本人の側である。そして、騙されるほうが悪い。

 これからの日本を待ち受けているのは膨大な金融資産に保証された豊かな老後ではなく、1000兆円にも上る大借金に締め上げられ、金融資産が掠め取られたことで「円大暴落」に見舞われる可能性を秘めた暗澹たる老後かもしれない。最悪のシナリオが日一日と現実味を帯びてくると考えるのは恐ろしい。

 日本人の国柄はまだ根絶やしになったわけではない。今からでも遅くはない。たとえ遅くても、何もしないよりましである。座して死を待つよりは、である。藤原正彦氏とは3年前、講演会のアテンドで伊丹空港から淡路島まで同行し、タクシーで往復する間、たっぷり2人で話をしたことを思い出す。藤原節はこの日も健在だった。

 一方、主催者側にとってセミナーのメーンは「バランスのとれた資産形成の実現と金融リテラシーを考える」と銘打った対談。藤原正彦氏の講演を聴いた耳には、投資は、欲に目の眩んだ不純な動機に基づいた金亡者のやることと考えたい気分になるが、「国柄」を取り戻すためには戦費の調達が必要である。

 放っておけば、尻の毛まで引っ剥がされかねない。自己防衛が必要なのである。超低金利が続く時代にあっては自分の身を守るためにも投資は不可欠である。「投資は儲けることではない。自分で自分を守るためには投資することが必要である。これが現実だ」(川村雄介氏)。

 つまり、投資で一定程度の収入を確保できなければ、生活水準を維持できないのが目に見えている。この現実をそのまま受け入れるかどうかだ。水準がどんどん落ちていくのを潔く甘受するも良し、敢然と立ち向うのも良しである。さて、どうするか。

 川村氏によれば、60歳定年で、支給される年金の平均月額は24万円(年額288万円)。ほどほどの生活をするために必要と目されるのは同38万円(同456万円、家賃&住宅ローン含まず)。差額は月額14万円(同168万円)。ちょっと多めに見て年額で180万円足りない。

 80歳まで生きるとすれば、それの20年間分=3600万円ほど足りない。安心できる生活を送るためには1億円は必要らしい。とにかく、この不足分を何とか工面・捻出しなければならない。となれば、「投資」を考えざるを得ないのである。

 それにしても、「投資」はそんな片手間でできるものではあるまい。サラリーマンが最低でも1日8時間勤務するように、老後、「投資」に励む場合でも、この程度の時間をしっかり投入して勉強しなければ、稼げないのが当然だ。へたをすると、元本が目減りするのだ。半端な取り組みでは到底、収益など上げられないことだけは確実のようである。

 投資に対する川村氏の発言を逐条的にメモしておきたい。是非論はともかく、これも1つの見方だろう。

・投資は漠然とするのではなく、目標を定めてやるべし。資本(キャピタル)を増やすのか、収益(リターン)を狙うのか。人生はお金そのもの。中国人は「金に向って走れ」をスローガンに生きている。
・投資は長い目で見ること、計画的にやることが重要だ。
・ハッピーになるためには愛より金が勝つ。財力に勝る愛はない。収入がゼロになると、愛という虚像は剥げる。
・リスク性のある商品を運用しないと、1億円にはならない。
・自分にとって蓄財とは何かをしっかり考えること。キャッシュを定期的に取りたいのか、元本を増やしたいのか。
・金融リテラシーを身に付けるためには習慣付け、楽しむこと、目標設定、長続きすること、分かりやすいこと、できればグループですることなどが効果的だ。

モンゴルの至宝展

カテゴリー: 絵画/彫刻/音楽

  12:07


 「横綱朝青龍が2場所ぶり25度目の優勝を果たした大相撲初場所。千秋楽の翌朝、本紙スポーツ面の星取表をみていると、『モンゴ』の3文字がいくつも踊っていた。朝青龍、白鵬の両横綱をはじめ・・・12人にも上った。初場所の幕内力士は42人だったから、モンゴル出身力士は3割弱を占めている。いつのまにか、”巨大なモンゴル帝国”が角界に出現していた」(2月3日付産経新聞朝刊)

 「体の大きさは日本人力士とさほど変わらないように見えるが、このところの大相撲はモンゴル出身力士ばかりが目立っている。強さの秘密はどこにあるのだろうか。騎馬遊牧民族の歴史や文化に触れれば、秘密が分かるかもしれない」(同)とあったので、「チンギス・ハーンとモンゴルの至宝展」(江戸東京博物館)に出掛けた。

 モンゴル帝国は、チンギス・ハーンが1206年に建国した騎馬遊牧国家。13世紀後半、子孫のフビライ(元の初代皇帝)の時代になると、中国全土だけでなく、南はベトナム、北はモスクワ、西は地中海まで世界最大の領土を支配した。日本にも1274年(文永11)と81年(弘安4)に襲来したが、大風(神風)のおかげもあって征服を免れた。

 帝国の版図は変化しているほか、モンゴル自体も現在のモンゴル人民共和国と中国・内モンゴル自治区に分かれたため、ちょっと分かりにくい。同展に出品されているのは中国・内モンゴル博物院の所蔵品。フビライの建国した元は大都(今の北京)に都を置いたから、モンゴル=中国で、明確に区分する必要はないのかもしれない。相撲界のモンゴルは間違いなく、今のモンゴルで、中国・内モンゴルではない。

 展覧会で目を引いたのは2分の1のスケールで復元された投石機と4分の1のサイズで復元された宮帳戦車(こうちょうせんしゃ)。「チンギス・ハーンが考案したとされ、大きな車輪の台車にモンゴルの住居である包(パオ)を載せ、20頭ほどの牛に引かせて移動。包は敵の矢を防ぐ鉄板で覆い、包の上から兵士が敵に向って一斉に矢を放った。まさに動く要塞だ」(産経紙)。

 日本の相撲界に対する海外勢の進出は著しい。高見山が初土俵を踏んだのは昭和39年(1964)3月。恵まれた体格とパワーを主体とした相撲で横綱・曙、大関・小錦、関脇・高見山を生むなどハワイ勢全盛期が平成初期まで続いた。モンゴル人力士の初入門は平成4年(1992)初土俵の旭鷲山ら6人。強さの秘密はモンゴル相撲で鍛えた多彩な技と足腰の強さにあるといわれる。

 いくら天賦の才能があろうと、何事も頂点を極めるのは至難の業だ。どんな天才だって、すさまじいまでの努力の持続がなければ、その地位を維持するのは難しい。あっという間に失速するだろう。モンゴル勢の強さに感心していないで、どうすれば強くなれるかを研究し、不断の努力を続けるしかないのだろう。上り詰めることよりも、むしろ、それを維持するほうがもっと難しいのは誰もが認める真理である。

「初孫」

カテゴリー: 酒/酒場/居酒屋

2010/02/26  23:47


 初孫誕生を祝って飲んだのが魔斬「初孫」。ちょっとよくできた話だが、これはたまたま。何かと言えば足を運ぶ桃太郎寿司谷原別館のカウンターに座ると、180mlの小瓶の写真が置かれていた。650円。市価の2倍以上の値段が付いていたが、こんな日にこそ飲む酒だ。

 「初孫」は東北醸造株式会社(山形県酒田市)の銘柄。創業は明治26年(1893)。それまでは「金久」という名前の酒を造っていたが、当家に長男が生まれたのを喜び、昭和の初めに「初孫」と酒名を改めたという。誰からも親しまれるようにとの願いが込められているようだ。

 魔斬(まきり)は酒田に伝わる、主に漁師などが使う切れ味の鋭い小刀。魔を斬るので、魔除けの縁起物とされる。「魔斬 初孫」の正価は1.82481円。生(きもと)純米本辛口。生づくりは清酒酵母以外の生き物の繁殖を抑えるにあたり、空気中の乳酸菌を活用するやり方。長年の技術と経験が必要で、生仕込む蔵は全国でも数少ないという。

汐留シオサイト

カテゴリー: 東京日誌Ⅱ

2010/02/25  17:04


 昔、新橋貨物駅があったあたりを「汐留(しおどめ)」と呼んでいた。この跡地から浜松町駅に至る31haを開発する事業が「汐留シオサイト」と今風に称している。何もないところに忽然と高層ビルが建った。街開きは2002年(平成14年)。8年しか経たない若い街である。

・電通本社ビル
・日本テレビタワー
・パナソニック電工東京本社ビル
・汐留シティビル
・東京汐留ビル(コンラッド東京)
・汐留メディアタワー(パークホテル東京・共同通信本社)

 お台場に行く新交通「ゆりかもめ」の裏側に聳え立つ高層ビル群は見事だが、それに比べてJRの線路を挟んだ反対側のいわゆる”機関車”側は雑居ビルが所狭しと軒を並べる対照的な風景が広がっている。サラリーマン族がうっぷんを晴らすアフターファイブの昔ながらの新橋である。


 JR新橋駅の出口の1つ「烏森口」(からすもりぐち)の名前の由来である烏森神社もこちらにある。「伸びゆく新橋の地にふさわしい近代建築美にあった神社」と神社の縁起には書かれていたが、神殿に通じる参道沿いに飲み屋が並んでいるのには感心した。流石、新橋である。ちなみに神殿はコンクリート作り。昭和の近代建築美とはコンクリートだった。

うなぎ「伊勢定」

カテゴリー: 東京日誌Ⅱ

2010/02/23  23:34


 日本橋は三越前のうなぎの老舗「伊勢定」本店。昭和21年(1946)創業だから、私より2歳年長。外務大臣・重光葵氏がよく通ったというので名前が通っている。確か、本店から100mほど奥まったところに別店があって、そこには重光氏の直筆の色紙が飾ってあるとか、ないとか聞いた記憶があることを思い出した。

 10日前の2月13日、三越新館ギャラリーで「画業60年 松尾敏男回顧展」をのぞいたあと立ち寄った。三越の本館と新館を結ぶ渡り廊下から下を眺めると、「うなぎ蒲焼 東京名店 伊勢定」の大きな看板が目に入った。上から覗かれるのを意識した看板だ。江戸前蒲焼と聞いてもよく分かりません。

 悩んだ末、いただいたのは「江戸うめし膳」。うなぎセイロ蒸し+だし汁+薬味+香物。3465円也。名古屋の「ひつまぶし」の如く、①そのまま食べる②だし汁をかけて食べる③お茶漬けにして食べる-の3通りを楽しめるというが、何を食べたのかよく分からなかった。

 

坪庭

カテゴリー: 東京日誌Ⅱ

2010/02/20  12:12


 2月もあっという間にもう終盤。つい先日前は雪が降ったばかりなのに、きょうは久しぶりによく晴れて、しかもとても暖か。それに週末である。少なくても、仕事に出掛けなくてもいいのはこの上もなく嬉しい。外に出たら出たらで楽しいことやそうでないことなどもあるが、逆にどこにも出掛けないで家にじっとしていることの穏やかさも格別のものではある。

 若い頃は家にじっとしていることなど退屈極まりなかった。それが年齢を重ねてくると、そうでなくなってくるのが不思議である。歳を取るということはそういうものなのか。老境に入るにはまだまだ修行が足りないが、物事に対する感じ方が若い頃とはそれとなく変わってきたのは確かだ。

 あまりに暖かいので家人に誘われ、庭に椅子を出してコーヒーを飲みながら太陽の光を楽しんだ。庭ではチューリップが芽を吹き出し、その向こうではボケの花が咲いている。ボケは1月3日に丹波から戻ってきたときにはもう赤い花を咲かせていた。ひょっとしたら、年末から咲いていたのだろうか。一番先に春を告げるのは梅だと思っていたが、もしかしてボケのほうが先なのか。

 ボケを植えた覚えはない。鳥がどこからか種子を運んできて、我が家の庭に落としていった。それがいつのまにか根付いた。家人によれば、昨日はこの小さなボケにメジロが止まって花の蜜を吸っていたという。知人の庭からもらってきたヒメシャラも大きく育ち、時々野鳥がやってくる。

 地球温暖化の進行で、自然のリズムも狂い始めているという。冬が終わっても、いつまで経っても春が来ないというような時代がやってくるなど、決して思いたくない。

三菱クラブから皇居を望む

カテゴリー: 東京日誌Ⅱ

2010/02/19  13:16


 今年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」のもう1人の主役は岩崎弥太郎(1835-1885)。坂本龍馬(1836-1867)と同じ土佐藩士。「龍馬に憧れ、龍馬を憎み、竜馬を愛した男」で、1873年(明治6年)に三菱商会を設立した幕末屈指の経済人だ。

三菱創業100年を記念して1973年(昭和48年)に三菱グループが創設したのが「三菱クラブ」(千代田区丸の内)である。三菱系29社が出資した会員制クラブだ。クラブの食堂で知人と会食した。目の前に広大な皇居が広がっている。その皇居を眺めながら食事をするのは開放感に溢れ気持ちがよい。

テレビの「龍馬伝」は大体観ているが、特に考えて観ているわけでもない。岩崎弥太郎が頻繁に出てくるのが少し気になっていたが、たまたま、三菱クラブで食事をしたこともあって、調べてみる気になった。岩崎弥太郎が1年先に生まれているが、2人は全くの同世代人であることを知った。

NHKドラマホームページによれば、大河ドラマ「龍馬伝」は「幕末史の奇跡と呼ばれた風雲児・坂本龍馬33年の生涯を、幕末屈指の経済人・岩崎弥太郎の視線から描くオリジナル作品」だという。道理で岩崎弥太郎が頻繁に出てくるわけだ。三菱クラブで会食しなかったら、気づかなかった。こんなことは多いのだろう。

原作者は、「龍馬がいく」を書いた司馬遼太郎氏ではなく、今回「龍馬伝」を書いた脚本家の福田靖氏である。

松丸本舗@丸善

カテゴリー: Books

2010/02/18  14:14


 丸善が創業140周年を記念して丸の内本店(丸の内オアゾ4階)の店内店として作ったのが「松丸本舗」これまでの本屋とは異なる「本の見せ方」「本の接し方」「本の読み方」を提供しようといういはば実験店舗だ。本を通じて知の連鎖を巻き起こす狙いが込められているという。

 松丸本舗を編集したのは編集工学研究所所長であり、イシス編集学校校長の松岡正剛氏。松岡+丸善=松丸ということらしい。試みや良し。でもまだよく分からない。

また雪が降る

カテゴリー: 東京日誌Ⅱ

  07:16


  今年はとにかく雪がよく降る。寒い。平均気温も低いのかどうか知らないが、暖冬に慣れた身体にとってはちょっとでも気温が下がると、ものすごく寒く感じると聞いた覚えがある。体感温度が低いのだ。地球温暖化の進行で、もう冬は来ないのではないかと少し心配していたが、そんな心配はどうも無用のようである。