2010年1月 のアーカイブ

もう梅が—@日比谷公園

カテゴリー: 東京日誌Ⅱ

2010/01/30  12:48


  1月も今日と明日で終わり。朝から真っ青の空が広がった。気温も時間を追うごとに上昇、午後にはコートを着ているのが辛いぐらいだった。霞が関に来たついでに久しぶりに懐かしい日比谷公園を散歩した。松本楼の裏手にある梅林の白梅1本はほぼ満開。紅梅も咲き始めていた。来週からもう2月だ。

 公園事務所のそばにある掲示「今、日比谷公園では」によると、①うめ②まんさく③ろうばい④あべまき(発芽)が咲いているようだ。まんさくとろうばいは日比谷野外音楽堂近くで、ここからは遠いのであきらめた。どちらも黄色の花が咲く。

 日比谷公園は明治36年(1903)、都市計画により誕生した日本で最初の洋式近代公園。江戸時代は諸大名の邸地だったが、公園ができるまでは陸軍の練兵場だったという。日比谷図書館を含め、この公園には随分長い間、お世話になった。

 昨年4月から閉館中の旧都立日比谷図書館はリニューアル工事などを経て、来年7月ごろには千代田区立図書館に衣替えして新たなスタートを切るという。

『ルポ米国発ブログ革命』

カテゴリー: Books

2010/01/26  22:58


著者:池尾伸一(中日新聞記者)
出版社:集英社新書(2009年6月22日第1刷発行)

ジャーナリズムが先進国でも開発途上国でも危機にさらされている。先進国ではインターネットによる広告収入の激減や金融危機に伴う大不況が追い打ちを掛け、中国やミャンマー、中東やアフリカ諸国では強権的な政府が検閲などでジャーナリズムの存在基盤を切り崩そうとしている、と著者は警告する。

 世界がどこに向かっているのか、自分はどの位置にいて、そうした状況にどう立ち向かっていけばいいのか、そうしたことをしっかり考えるためには情報が不可欠だ。不透明さが一段と濃くなる今の時代においてはなおさらだ。

 時代を生き抜くためには情報が必要だ。ジャーナリズムの果たす役割は高まることこそあれ、へることはないはずだ。ところが現実は、ジャーナリズムの力を殺ぐ方向に向かうばかりだ。何かが狂っている。何かがおかしい。

グラウンド

カテゴリー: 東京日誌Ⅱ

2010/01/24  14:53


 空気はまだ冷たいが、日射しが暖かい。公園は人がいっぱい。サッカーや野球ボールに興じる人たちや、凧揚げに熱中するこどもたち。グラウンドを走ったり、歩いたり、みんな思い思いの形で、休日を過ごしている。

 ずいぶん、日射しが長くなった。一歩、一歩、春がやってきている。庭のチューリップも芽を出してきた。時間は確実に時を刻んでいる。春を最初に告げるのは梅だと思っていたが、実はボケのほうが早い。もう咲いている。

小沢一郎氏の力の源泉

カテゴリー: 政治/外交/国際/軍事

2010/01/23  16:24


  民主党の小沢一郎幹事長は今や稀代の大スターだ。活躍の舞台はこれまでもっぱら政界だったが、今や政界だけにとどまらず、世間の誰もが一挙手一投足を注目する国民的スターにのし上がった。政権与党の最高実力者の立場を握った人物の一言で、われわれの生活が決まる以上、関心を持たざるを得ない。

 鳩山新政権の政権運営に不安定・不安感が付きまとっているのは未経験がなせるわざで、ある程度寛容の精神で受け止める必要があるとは思うものの、カネの問題で、政治家・政党としての資質が問われるとしたならば、厳格に問題視されて当然である。政党・政治家の倫理観そのものが疑われるからだ。

 小沢氏が問われているのはまさしくこのカネの問題である。自身の資金管理団体「陸山会」の土地購入をめぐる不透明なカネの流れだ。小沢氏はちょうど今、この問題について、東京地検特捜部の事情聴取を受けているころだ。

 聴取の結果はいずれ明らかになるにしても、気になるのは検察の捜査に対する民主党側の動き。マスコミ報道に対する批判が噴出する一方、自ら問題を解明しようとする努力が事実上、全く出ていないことだ。公訴権という巨大な権力を有する検察を批判するのは自由だが、自ら真相を解明しようとする自浄作用が働かないのはよく分からない。

 人は自らの問題点を指摘され、批判されるのはどうしようもなく辛いものである。否定されたも同然と考えるからだ。それでも、外部からの指摘が的外れと思うならば、真相を自らの手で解明しようという気持ちが沸々と湧いてきて当然である。反論するためには、きちんと自己調査を行うはずである。

 自分のことでなくても、自分の属する組織や団体が批判を浴びれば、自分たちの手で何とか真相を突き止めようと動くのが普通である。捜査当局とは違った真相の解明の仕方があるはずだ。もちろん、身内の批判・非難・糾弾は認めたくないものだ。

 しかし、投げつけられた疑念を自らの手で晴らす努力を放棄したように思える民主党の姿は異様としか思えない。党内で侃侃諤諤の議論が巻き起こって当然なのに、金太郎飴のように、党内結束して、検察・マスコミと対決する姿勢には驚きを隠せない。

 民主党という政党は自由な言論を認める民主的な政党と思っていたが、どうもそうではないことを満天下に暴露したのではないか。党内での自由な言論を封殺した独裁的な”小沢私党”のように見える。これにはびっくりした。中にいると、自分の姿が見えなくなるものなのか。

 なぜ、こんなことになってしまったのか。なぜ、民主党は民主主義を否定する政党と化したのか。自由を失ったのか。金縛りにあったかのような言語障害に掛かってしまったのか。同志を守るのは人として重要なことだが、無批判的に守るのは合点がいかない。

 日本の政治はもう10年以上も前から、小沢氏を中心に動いているようである。自民党政権を一度つぶし、政界再編を仕掛けたのも小沢氏だし、自民党を政権の座から引きずり降ろしたのも小沢氏だ。すべてはこの人物を中心に動いている。

 小沢氏がなぜ、常に日本の政治の中心に居合わせることができたのか。その力の源泉は何なのか。選挙に強いのはなぜなのか。人の心をつかむような温かさを感じるようにはとても思えないあの人物のどこに、人々はひれ伏すのか。彼の政治理念や政治観に信服するのか。吸い寄せられるのか。

 小沢氏は政治家としては致命的なほど口べただし、不器用なように思える。1980年代後半、ロンドンでの首脳会合で、彼が官房副長官として記者ブリーフィングを行った際、その場に居合わせたことを思い出す。「ずいぶんえらそうな人だな」と感じたことを覚えている。まだ若くて、勢いがあった。

 口べたで不器用な政治家が、政界の頂点にまで登り詰める上で有効な武器とは何か。どういう能力を駆使したのか。自分の選挙に強いのは当然のことながら、他人の選挙にも強くなければならない。党の選挙を勝利させる力がなければならない。選挙は政策で勝つのではないのかもしれない。人間的魅力で勝つのでもないのかもしれない。

 選挙はどんな武器で戦うのか。政策で戦うのか。人間的魅力で戦うのか。もちろん、総力戦だから、あらゆる戦略・戦術・武器を駆使して戦うのだろう。大きな戦略が必須だ。弁論・個性も必要だ。武器の優劣も重要である。

 オバマ米大統領が勝利したのは弁舌にうまさに加えて、カネの力も大きかった。大口献金者の資金提供もあったが、インターネットを通じた小口献金のほうが多かった。小沢氏の力の源泉も同志の選挙を支援できるだけの潤沢なカネの力だったのだろうか。誰がそれを供給したのだろうか。

 カネの力は偉大である。何をやろうにも、資金の裏づけがなければ、どうにもならない。政策立案力、構想力も重要だが、その実行力を担保するのは資金である。各種政治組織が雪崩を打つが如く、政権与党になびいているのは予算という巨額の資金が欲しいためである。

 その予算の分配権を握る人物に個人や組織が群がるのは自然な姿だ。自民党時代もそうだったし、民主党に政権が交代すれば、その民主党に人心がシフトするのは理に適っている。これは日本だけでなく、米国だって、ロシアや中国だって同じ構図である。

 げにおそろしいのはカネである。カネがあれば、ある程度、自分の夢を実現できるからだ。普通の人は、そう思っても、それほど強い執着心で、夢を実現しようと思わないものである。夢を実現しようと思っても、策略・謀略・権謀術数や武器としてのカネを駆使しようとまで考えない。

 多少は考えるにしても、それを実行するに当たって、あまりにも多大な労力を必要とすることに嫌気がさして、たいていは途中であきらめるのがほとんどだろう。自分の限界を感じ、それに甘んじて、さっさと戦線を離脱する。膨大な労力を費やしても、成功する保証がないばかりか、敗北すれば、自分を待っているのは徒労感と多額の借財である可能性があるからだ。賢い人ほど、そんな苦労をあえてしない。

 しかし、中には、自分の夢や理念や信念に最後まで命を賭ける稀有な人がいないわけではない。世に出た人というのはほとんどがそうではないか。自分の欲望が並外れて強いのだ。イチローやマツイだってそうだ。天才ではあるが、それ以上に努力家だ。普通の人は途中であきらめる。

 政治家になりたいと思ったことが一度もないので分からないが、政治家は自分の考えを地方規模、国家規模

山崎豊子自作を語る3『小説ほど面白いものはない』

カテゴリー: Books

2010/01/21  23:06


 自作を語る3は対談集。相手は石川達三、松本清張、今東光、菊田一夫、浪速千栄子、城山三郎、長谷川一夫、三國一朗氏などそうそうたる人物。ほとんどが鬼籍に入っており、丸で彼らの肉声を聞くようだ。対談そのものが、何十年も前のものが多く、時間が経っているものの、内容は決して古くないのが面白い。

 同じ文章を書く人間として、小説家を意識したことはあったが、結構読んではいたものの、「小説」を意識したことはなかった。小説がこれほどまでの取材を基に書かれているものとは思ってもいなかった。誰の作品でもそうだとは思わないが、少なくても山崎作品については、すさまじい取材が背後になされていることを知ってびっくりした。

 「たかが小説」ではない。「されど小説」である。

神戸新聞の7日間

カテゴリー: 東京日誌Ⅱ

2010/01/16  21:01


 今年は1995年に起きた阪神淡路大震災から15年。1月17日午前5時46分。未曾有の震災は多くの被災者を生んだが、地元紙・神戸新聞もその1つ。壊滅状態の編集局の中で、記者らが何を考え、どう動いたか。地震発生後7日間の取り組みをまとめたのが『神戸新聞の7日間』。それをフジテレビがドキュメンタリー・ドラマ化した。

 災害体験は風化する。特に悲惨な体験を当事者としては少しでも早く忘れたいのだろうし、忘れることができるからこそ、また生きていけるのではないか、とも思う。嫌なことをいつまでも引きずっていたら、新しく生きられないのも事実だ。

 しかし、忘れてはならないものがあるのも確かである。後世に引き継いでいく必要のあるものも存在する。引き継いでいくためには正確な記録が必要だ。事実を記録し、それを後世に伝えることが記者の仕事であり、新聞社の仕事である。

 震災体験を本当に腹の底から理解できるのは被災者だけかもしれない。しかし、南米ハイチで大地震が発生するなど、いつどこで、どんな災害が起こるか分からない。いつ、自分がそれに巻き込まれ、被災者の立場に放り込まれるのか分からない。数年後かもしれないし、明日かもしれない。

 大変な時代にわれわれは生きている。しかし、時代がどんなに大変でも、これからも未来を信じて、生き続けなければならないことをこのドラマは訴えている。

沈んだ太陽

カテゴリー: 東京日誌Ⅱ

  16:51


 映画「沈まぬ太陽」を観て、東池袋でもりそばを食べたあと、帰路に着いた。そろそろ夕刻。空を見ると、太陽がビルの谷間に沈もうとしていた。それを見て、急に思いついた。「沈まぬ太陽」を観たあとだから、「沈む太陽」もみたい。

 慌てて電車を乗り換え向ったのは東京都庁。あそこから沈む太陽を見ようと思った。太陽が落ちていく姿を眺める場所としては最適だ。展望室も無料で開放されている。本庁舎45階の北展望室に着いたのは午後4時50分。遅かった。既に太陽は沈んだあとだった。

 この日は失敗したが、前回(2008年10月4日)にはうまく遭遇していた。難しいものだ。

①45Fから地上を見下ろす

②地上から本庁舎を見上げる

東池袋大勝軒

カテゴリー: 東京日誌Ⅱ

  15:12


東池に
旨いものあり
特もりの
忘れられない
そばの味

山岸一雄

 シネマロサを出たあと、遅い食事をしようと、サンシャインを突っ切って東池袋に行った。大勝軒に行った。1年半前(2008年8月20日)に来たときと同じように、店の入口に、会長の山岸さんが座っていた。「特に仕事はないんだ。朝、店に来て、味をみて、それからはここに座っている」

 創業店が再開発事業で立ち退きとなり、通り向こうから鉄道高架下のここに越してきて3年になるという。「大勝軒は今や全国に150店にもなった。みんな弟子だ。彼らが本店が欲しいというから、ここに座っている。風邪なんか引かない。むしろ元気になった」。

 もりそばを食べる。元祖・つけ麺だ。スープには大きなチャーシュー1枚、メンマ3枚、ゆで卵半個、ノリ1枚が入っている。スープは多少甘め。それに麺をつけて食べる。昭和36年(1961)に東池袋で店を出し、50年になるという。継続することは偉大である。

『沈まぬ太陽』

カテゴリー: 映画/テレビ/舞台

  13:59


 このところ、山崎豊子づいている。山崎豊子が自作について語った本を読み、山崎豊子原作のドラマ『不毛地帯』をテレビで観て、そして今日は気に掛かっていた山崎豊子原作の映画『沈まぬ太陽』を池袋シネマロサ2で観た。

 途中10分の休憩を挟み、3時間30分という長い映画である。テーマも重く、平日の仕事帰りに気楽に楽しむというわけにはなかなかいかない。気合いを入れて観る必要があった。それがやっと実現した。

山崎豊子自作を語る1「作家の使命 私の戦後」

カテゴリー: Books

2010/01/13  23:20


 山崎豊子氏の書く作品はどれも圧倒的な重量感と永遠に続くような長編ばかりだ。現在、テレビ放映中の『不毛地帯』は全5冊(新潮文庫版)、映画が上映中の『沈まぬ太陽』も全5冊(同)である。とにかく大長編だ。読み応えがある。

 いずれも、テーマは戦争である。ちょっとやそっとで書ける内容ではない。渾身を込めた取材をベースに「小説」を組み立てる。5年も8年も書き続ける精神は半端ではない。とにかく、すさまじい。山崎作品の愛読者の1人として、彼女がどのような気持ちで、これらの作品を書いてきたのは、ひどく興味深い。(続く)