震災報道と『バカの壁』

養老猛司氏(テレビ東京「週刊ニュース新書」から)

 

「3.11」前日の田勢康弘の週刊ニュース新書のゲストは解剖学者の養老猛司氏(東大名誉教授)だった。2003年を代表するベストセラー『バカの壁』(新潮新書)の著者としてのほうが有名だ。どういうわけか、まだ読んでいないが、『「人間というものは、結局自分の脳に入ることしか理解できない」、これが著者の言うところの「バカの壁」であり、この概念を軸に戦争や犯罪、宗教、科学、教育、経済など世界を見渡し、縦横無尽に斬ったのが本書である』(アマゾン書評)。

「自分の脳に入ることしか理解できない」となれば、当然知りたくないことや馬の合わない人の話は自主的に情報を遮断し、耳を貸さないことになるので、理解する前の段階で終わってしまう。つまり人は自分の周囲に壁を作ることになる。これが筆者の言う「バカの壁」のようだ。

指摘されてみれば思い当たる。職場でも自分と同じ考えの持ち主とはかなり頻繁かつ濃密に情報交換や意見調整をするものの、相手が自分と完全に違う考えの持ち主だったり、自分の価値観や主義主張と明確に異なっていたり、生理的・感情的にどうも馬が合わなかったりした場合には、その人を理解しようという努力をしないものだ。むしろ、自分の考えを絶対視し、相手の主義主張を否定しようとしがちだ。自分の方から相手にすり寄ることはなかなかできない。

そして、その状態が長く続くと、もう相手との関係は修復できない状態に固定され、いつまでも接近することはない。あとはどちらかが倒れるまで、対立・抗争は続く。社内や組織内の派閥対立・権力闘争は大体がそうだ。行き着くところまで行くしかない。民族間の戦争やテロも、この「バカの壁」の延長線上にあるのかもしれない。

この日の番組のテーマは「震災1年 私たちは変わったか」。アンケート結果では、「大震災を機にニッポンは変わると思う?」との質問には「変わる」が55%以上だった。養老氏のコメントは「変わってほしいと思っている人が多いが、変わるはずない」。「生活に変化はあった?」との問いへは76%以上が「変化はない」と回答。つまり「思っていることとやっていることが違う」と指摘した。

東日本大震災の被災地は広いと言っても東北だけ。しかも太平洋側に限定されている。関東もそれなりの被害を受けたが、三陸沖に比べれば大したことない。日本全体が大被害を受けた第2次大戦直後とは違う。だから関西や中国、四国、九州の住民に変化を期待するのは無理だ。被災者心理からすれば、「関東や関西の人たちは自分たちのことを理解してくれない」という気持ちになるのだろうが、震災経験を共有できていない非被災者にそれを望むのは難しい。東北の被災者の気持ちを本当に分かるのは阪神淡路大震災など、自分たちも被災した経験のある人たちだけかもしれない。

番組では日頃から気になっていることについての言及もあった。大震災で2万人が死亡・行方不明となり、エネルギー供給の大黒柱だった原発神話が崩壊した。1年経っても余震は頻繁に発生し、放射能汚染も続いている。エネルギー供給への不安も解消には依然ほど遠い。それなのに、危機感に乏しいのはなぜか。

過去1年間、日本中が「絆(きずな)の大合唱や「ガンバレ日本!」にあふれた。その中で、責任論はどこかへ消えた。津波で流されている子供や大人の姿や遺体の映像は一切テレビに映らない。被災地で増えたとされる犯罪に関する報道もない。しかし、世界中にはそれが事実として映っており、米紙ニューヨーク・タイムス紙などは遺体の写真も報道した。日本のメディアは「良い話ばかり選んで報道している」(田勢氏)からだ。

この1年間、ほとんど毎日のように、おびただしく流される震災・原発報道。それなりに貴重で有益な内容や心温まる話、教訓にしなければならない指摘も多かったが、違和感も付きまとった。事実の一面が報道されていない。美しくない点、見たくない点もあったはずだが、それらが故意に伏せられたのではないか。話が美し過ぎる。そういう思いが抜けなかった。

養老氏は「日本人は危機対応が得意ではない」と指摘する。危機に見舞われるのは日本人だけではない。しかし、アングロサクソン人は危機への対応が少なくてもしっかりしている。この違いはなぜ起こるのかについては、「日本が危機管理能力を欠くのは性善説のためか」(2011年6月9日)で考えた。危機を管理するという意識を育てないまま生きてきたことの咎めが一気に噴き出た格好だ。危機感が足りなかった。

震災報道も戦争中と似ている。「あの戦争に負けると思っていた人も半分くらいいたと思うが、それは言えなかった。言うことがタブーだった」。福島第1原発には遠隔作業用のロボットがもともと置いてあったものの、国民に隠されていたという。震災・原発事故が起こり得るという想定に基づいたものだが、それが知れたら、原発は危険なものであることを認めることになる。それゆえ、その事実は伏せられた。

事実から目を閉ざすということも周りに壁を作ることだろう。事実は変わらないが、見なければ存在しない。そのほうが「平穏な日常」を取り戻せるから。見なくて良いのなら、それでよいのだが、しっかりと見なければいけないことまで目を覆うと、次に同じような危機に直面した場合、同じような痛い目に遭う。いつの時代も危機的な状況は存在すると思うが、その危機の度合いが一段とエスカレートしているように思えてならない。

日本人はこれまで、そうした危機を何とかうまく乗り切ってきたものの、そろそろしっかりした危機管理方法を確立しないと乗り切れない時代になってきているのではないか。そのためには日本人の国民性を危機管理型に変える必要があるのではないか。国民性が簡単に変わるとは思えないが、少なくても、それに向けた努力をしないと、「きりきりセーフ」から「きりきりアウト」になるのではないか。

アウトになってからでは遅い。まだ間に合ううちに何とか手に打たなければならない。「3.11のおかげで良くなったと言える生き方をするしかない」(養老氏)なのだろう。

 

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