300年の暖簾を誇る「伊豆栄本店」で「一色産うなぎ」を食する
初詣に家人と上野に行った帰り、うなぎでも食べて帰ろうということになった。不忍池近くで降りたら、鰻割烹「伊豆栄本店」(台東区上野2)の看板を見つけたからだ。これを見た以上、もう食べて帰るしかない。
東京都内にはうなぎの名店はたくさんある。日本橋小網町「喜代川」、日本橋室町の「伊勢定」、南千住の「尾花」などはのれんをくぐったことがある。麻布飯倉の野田岩本店はテレビで見たことがある。
どこもかしこも鰻は高くなってしまった。養殖が天然を駆逐してしまった。鰻屋は1年のうちに何度も行けるところではない。数年前はうな重で3000円くらいだったが、今では5000円はする。お酒やら何やらを頼めば、あっという間に1万円コースだ。
年にせいぜい1~2回だ。そんなに行けるわけがない。正月とか盆とか、せいぜいそんなところだ。
行ったのは正月2日である。財布は膨らんでいるわけではないものの、気分が大きく膨らんでいる。地下鉄を地上に上がっていったら、伊豆栄本店近くだった。これも何かの巡り合わせだろう。
午後1時頃にのぞいたら、列ができていた。1時間ほどは待つのだろう。時間を見計らって夕刻にチャレンジすることにしたが、正解だった。本店以外に不忍亭、梅川亭、永田町店、佐渡ヶ島店があるが、2日からやっているのは本店だけだった。
4時すぎにいくと、そんなに待たないで2階窓際の掘りごたつ席に案内された。それでも満席である。窓の外の道路の向こう側は不忍池が佇んでいる。場所はいい。メニューを検討してまずホタルイカの沖漬け、カニサラダ、天ぷらの盛り合わせ、それに高清水の燗酒を1合頼んだ。
ウィキペディアによると、アジやキスなどを醤油で漬け込んだ「沖漬け」は北海道の名物として有名だが、ホタルイカの沖漬けは富山県の名物。本来は沖で操業しているイカ釣り船で釣れた先から生きたままのイカを醤油タレに漬けて作るものだ。
イカが醤油を飲むことによって内側から味が染み込んでおり、おいしくなるという。2日目、3日目と時間が経つにつれて味が奥まで染み渡り、1日目とはまた違ったおいしさを楽しむことができる。
日が落ちるとグーンと冷え込んだ。凍えそうだ。沖漬けはうまい、まずいの差が大きいが、伊豆栄の沖漬けはみりんやお酒も入っているらしく、とにかく美味だった。少しずつ口に含むようにしながらいただく。こんなに熱燗に合うものもない。
一般的にうなぎと言うと甘いタレを付けた「蒲焼き」だが、うなぎ本来のうまみを味わえるのは白焼(しらやき)である。伊豆栄では一尾5720円也だった。白焼は食材に調味料やタレ、油などをつけずに直火焼きにする調理法、または調理された料理のことで、素焼きとも呼ばれる。タレの味ではごまかせない、うなぎ本来のうまみをそのまま味わえる調理法だ。
びっくりしたのは白焼に使われる重箱の構造がすごかったこと。上ブタの下にも中フタがあり、その下に白焼が入っていた。その下には覚めないようにお湯が入っている。また取り分けるお皿も温めて出てきた。
素焼きだけだと、冷めると全身に回った脂が戻って(固まって)きてふんわりさがなくなる。そうなれば、おいしさが逃げる。それを防ぐためだ。何とも芸が細かい。
この白焼をわさび醤油を付けながらあっさりいただく。時々熱燗を飲む。何とも言えない幸せを感じる。生まれてきて良かったなあと感じる瞬間である。
現在では「江戸前」と言えば、「江戸前鮨」を思い浮かべるが、江戸時代には「江戸前」はうなぎの代名詞だった。伊豆栄は八代将軍・徳川吉宗の時代に、現在の本店の建つ上野池之端で産声を挙げたと9代目女将・土肥好美は「伊豆栄とは」で言う。
「良質な鰻が獲れた上野界隈には小屋掛け程度の簡易な造りの蒲焼屋が建ち並び、当店もそんなささやかな蒲焼屋の1つだっとと言い伝えられている」とも述べる。
それから300年。幕末の動乱期、上野の町が戦火に包まれた上野戦争、関東大震災に太平洋戦争、そして東日本大震災。伊豆栄は生き延びてきた。
「数々の戦争や震災に見舞われても暖簾を守り続けることができたのは、伊豆栄を支えて下さる多くのお客さんがいて下さったからこそ」と頭を下げる。
300年の暖簾の力は強い。
白焼にタレを付けて焼いた蒲焼である。白焼を食べた後なので、2つは多すぎる。1つをとって、2人で分けることにした。これで十分である。
伊豆栄のうなぎは愛知県西尾市一色町産。一色産のうなぎのルーツは100年前から。現在、内水面養殖でうなぎを生産しているのは47当道府県中12。鹿児島県と愛知県が圧倒的に多く、全国の65%を占める。
市町村別の生産量では愛知県西尾市が全国でもトップクラスを誇るという。「三河鰻咲(みかわまんさく)うなぎ」は一色産ブランドうなぎの名前でもあり、特殊配合したうなぎの餌の名前でもあるようだ。