【美術館】長野県立美術館東山魁夷館の「霧の彫刻」に引かれて「善光寺」参り
■3回目の軽井沢
6月に3泊4日、9月には4泊5日に続いて11月にも軽井沢に行った。今度は2泊3日だった。泊まるのは友人の別荘だ。ロンドンで知り合い、帰国後もおりにふれて付き合いが続いている。もう35年にもなる。
大人の付き合いは難しい。旦那さんか奥さんの一方が先方のどちらかと合わないとダメだ。しかも、合わないことのほうが圧倒的に多い。趣味だとかも難しい。親友と言われる存在も少なくないが、相手の家に泊まりに行ったりするケースは多くないのが現実だ。
収入の格差も意外と交際を無理にするものだ。その差が大きければ大きいほど相手の存在が大きくなる。意識して「付き合う」のが辛くなる。相手を認められなくなるのだ。悔しいがこれも現実だろう。
わが家と先方の家とも実は格差が大きい。そんなことは関係ないのが友人だと妻は言う。どちらかがそれを意識しないと、逆にお互いをそんなに意識しない存在になるのだ。気に留め出したら切りがない。うちはうちとしてできる限りの付き合いをする。向こうは向こうで精一杯の付き合いをしてくれる。それでお互いがハッピーならばOKなのだ。
そういう付き合い方をしている。いつか破綻するときがあるかもしれない。その時はその時のことだと考えている。
■シンプルかつ美しい谷口吉生氏設計による建物
長野県立美術館東山魁夷館(長野市箱清水)で彼の作品を見たあと、長野県立美術館をのぞいた。軽井沢の友人の別荘に行ったついでに寄ったもので、それほど期待はしていなかった。むしろ本館と東山魁夷館を設計した谷口吉生(たにぐち・よしお)氏の建物が見たいというのが訪問の理由だった。事実、シンプルで美しい建物だった。
東山魁夷館は、日本画家の東山魁夷(1908ー1999)から作品と関係図書の寄贈を受け、長野県信濃美術館の併設館として1990年4月に開館した。
東山魁夷は横浜市の生まれで、神戸市で育っている。昭和を代表する日本画家。長野県との付き合いは「私の作品を育ててくれた故郷」と呼んでおり、長野県の風景を好んで描いた。
同館には970余点に及ぶコレクションを所蔵している。「緑響く」「白馬の森」「夕静寂」などのほか、初期の「ヨーロッパ風景」「旅の写生」「中国風景」「北欧風景」「京洛四季」「白い馬の見える風景」「大和春秋」の習作・スケッチなどを所蔵している。
東山魁夷は静謐な抒情性を湛えた風景画により、戦後の日本画壇で高く評価され、今なお多くの人々の共感を得ている画家だが、長い画業の中で、風景との真摯な対話を積み重ね、日本的な自然観に裏打ちされた唯一無二の心象風景を確立したといわれる。
動機が薄弱なので、当然のことながら11月19日から来年1月16日までの会期で唐招提寺御影堂(みえいどう)障壁画展が開かれることは知らなかった。やはり知ると悔しい。死ぬ前までに東山の記念碑的大作である奈良・唐招提寺御影堂の障壁画全68面を何とか目に焼き付けておきたいものだ。
同障壁画は幾多の困難を乗り越えて中国から来日し唐招提寺を開いた鑑真和上(がんじんわじょう)の祖国である中国の風景や日本の理想的な自然としての海と山など描かれている。
同展では、通常非公開となっている障壁画が、部分的に御影堂を再現して展示されるほか、この風景を構成するために、東山が日本や中国の各地で重ねた取材の軌跡を、当館所蔵のスケッチや下図などからたどる工夫も凝らされている。
■長野県立美術館として生まれ変わり
長野県立美術館は本館と東山魁夷館の2つ。長野県立美術館自体は長野県信濃美術館として1966年に開館したが、老朽化に伴う全面改築にあわせて2021年4月10日、長野県立美術館として生まれ変わった。
もともと郷土にゆかりのある芸術家たちの作品や信州の自然を描いた風景を中心に収集・公開してきたが、新県立美術館として4つの収集方針を掲げた。
①長野県出身または長野県に関係の深い芸術家の近現代美術作品②美しい山岳風景や精神文化に通じる作品③日本および海外の近現代美術史上の重要作品④近現代美術史を理解する上で貴重な作品群-の4つだ。新設した本館コレクション展示室で展示している。
■人工的な霧を大量に発生させ「霧の彫刻」を制作
東山魁夷館を見終わり連絡ブリッジを渡ろうとしたら、突然霧が湧き始めた。一瞬何が起こったのか想像も付かなかった。あとから知ったが、高い圧力で水を特殊なノズルから噴出させ、人工的な霧を大量に発生させて「霧の彫刻」を制作しているのだという。
作者の中谷芙二子(なかや・ふじこ)氏によると、その場の気象のわずかな変化を視覚化しながら漂い続ける「霧」を体感することで自然と響き合うことを狙っている。鑑賞者は、その中に踏み入れ、漂い続ける霧を体感できる。
「霧の彫刻」は美術館本館と東山魁夷館との間に設けられた水庭で、カスケードと一体になって不定期(1日4回)で現れる。まさに山肌を覆う霧そのもののようである。
美術館は国宝・善光寺に隣接する城山公園内に立地している。全面改築に当たっては隣接する善光寺門前の街並みや信州の自然と調和した景観を創り出す「ランドスケープ・ミュージアム」をコンセプトにしたが、「霧の彫刻」はそれにふさわしい。
ちなみに中谷氏は1933年札幌市生まれ。父の中谷宇吉郎は東京帝国大学理学部物理学科で寺田寅彦に学び、北海道帝国大学理学部教授となってから、世界で初めて行きの結晶を人工的に作ることに成功した物理学者。
戦後、芙二子氏はアメリカの研究機関に招へいされた父に伴い渡米。ノースウェスタン大学美術科を卒業し、パリとマドリッドで絵画を学んだ。1970年の日本万国博覧会において「霧の彫刻」を初めて発表。以降、世界各地で80を超える霧の作品を発表して、世界的な評価が高い。
■「牛に引かれて善光寺参り」
ところでこの長野県立美術館は国宝・善光寺(長野市大字長野元善町)の目の鼻の先にあることはこれまで知らなかった。長野市には3度ばかり来ているものの、昔は美術にそれほど関心がなかった。
2年前の2019年にも来ている。そのときは善光寺にもお参りしている。お参りしたものの、午後6時近くで、8月だったからまだ明るかったものの、店は閉まっていた。
悲しいが知らないというのはそういうものだ。ポイントしか目に入らない。デジタル時代になると特にそうだ。面につながらない。事前調査もしていないのだから当然と言えば当然かもしれない。
いずれにしても美術館は善光寺の裏手に位置している。それを今回知った。それだけでも何か徳をした気分になれる。
善光寺のHPを見ていると、「善光寺法話」がある。その第1話に次のようなことが書かれている。多分、これまでに何度か聞いたことのあるたとえだ。たとえそのものは耳に入っているものの、実はその意味はよく分かっていない。その一例かもしれない。
「牛に引かれて善光寺参り」だ。「法話」でこの話を以下のように紹介している。
昔、信濃の国、小県の里に心が貧しい老婆がいた。ある日、軒下に布を干していると、どこからか牛が1頭やってきて、その角に布を引っかけて走り去ってしまった。老婆はたいそう腹を立てて、その牛を追いかけた。
ところが牛の逃げ足は早く、なかなか追いつかず、とうとう善光寺の金堂前まで来てしまった。日は沈み牛の姿は見えない。
老婆は思案に暮れたが、善光寺の仏さまの光明の御利益があったのだ。老婆がふと足下に垂れていた牛のよだれを見ると、「うしとのみおもひはなちそこの道になれをみちびくおのが心を」と書かれていた。
老婆は菩提の心を起こして、その夜一晩善光寺如来さまの前で念仏を唱えながら夜を明かした。家に帰ってこの世の無常を嘆きながら暮らしていた。
たまたま近くの観音堂にお参りしたところ、あの布が観音さまの足下にあるのではないか。牛に見えたものは、この観音菩薩の化身であったのだと気づき、ますます善光寺の仏さまを信じて、めでたくも極楽往生を遂げた。
これを世に「牛に引かれて善光寺参り」と語り継いでいるのだという。思ってもいなかったことや他人の誘いによって、良いほうに導かれることのたとえとして使用されているという。
■日本最古の仏像
なぜ善光寺がこれほど有名になったのかはよく分からない。「善光寺縁起」によれば、本尊は「一光三尊阿弥陀如来」。552年、仏教伝来の折に百済から日本に伝えられた日本最古の仏像と言われているとか。
この本尊は一時うち捨てられたこともあったが、後に信濃国司の従者として都に上った本田善光(ほんだ・よしみつ)が持ち帰り、642年に現在の地に遷座したといわれる。644年には勅願により伽藍が造影され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられたという。
創建以来10数回の火災に遭ったが、その都度復興され護持されている。現在の善光寺本堂は、1707年(宝永4年)に再建された江戸時代中期を代表する仏教建築として国宝に指定されている。
間口24m、高さ30m、奥行き54mという壮大な伽藍は東日本最大。本尊は絶対秘仏とされ、瑠璃壇のお戸帳は法要時には上げられ、本尊を安置する空殿(くうでん)を拝することができる。
善光寺は宗派を超えてすべての人々を受け入れることを旨としており、「無宗派」を原則としている。これが多くの人の信仰を集めたともいわれている。