多賀大社
遅い夏休みをとった。仕事から離れて、鋭気を養うことが休みだが、田舎に帰ることは休みにならない。別荘ならともかく、自分の家に行くのだから、あちらでも家事は自分でやるしかない。誰かが待ち受けていて、家事を引き受けてくれるわけではない。あちらの別の生活が待っているだけだ。
次から次へと仕事が湧いてきて、とてものんびり休養・静養するわけにはいかない。むしろ東京の日常より忙しい。休みにならないが、かといって自分の家を放っておくわけにもいかない。誰にも文句を言えない。これも定めか。
せめてもの楽しみが東京の自宅と兵庫・丹波の自宅を往復する際に、見知らぬ土地にちょっと立ち寄ることだ。高速道路から下りると、ETC割引(いつの間にか割引率が50%から30%に大幅に引き下げられていた)の恩恵を放棄することになる。
高速を下りることなく、自由に周辺観光地に出て行けるところは非常に少ない。外に出ないのが原則で、施設外に足を延ばすことを認めているのは例外だ。釈迦堂(中央)の遺蹟博物館、神坂(同)の馬籠宿、そして多賀SA(名神)の多賀大社(滋賀県犬上郡多賀町)くらいだ。
歩いていて見つけたのが糸切餅(いときりもち)の「ひしや」。店主によると、30度を超すと、本来の味が出ないとかで、製造しない。9月になって涼しくなれば作るという。白地に赤と青の3本線が入っている。蒙古襲来と関係があるらしい。
多賀で糸切餅を作っているのはひしや、と莚寿堂、多賀やの3店。それぞれ本家、元祖、総本家を名乗っている。この中でひしやだけが手作りで、他の2店は機械生産らしい。
ひしやでお預けを食った糸切餅。それが多賀やで売られていた。機械生産ではあるものの、すぐ食べられるものなら、食べてみたいのが人情だ。筒状になったお餅の中にこしあんが入っていた。なかなか繊細な味わいだ。
絵馬通りの中程にある真如寺(しんにょじ)。天正年間に開基された浄土宗のお寺。本尊は木造の阿弥陀如来坐像(重要文化財)。藤原時代後期の作だという。神仏習合時代は多賀大社の中にあったが、廃仏毀釈によって明治以降、こちらに移転したという。
本堂には「十王掛け図」(享保年間作の地獄絵図)が展示してある。なかなか怖い屏風の絵図だが、住職によると、昔はどこの寺にもあったらしいが、仏教排斥運動のため珍しいものになったという。
真如寺の門が赤く塗ってあることの意味については、「何も意味はありません。昔の住職の趣味でしょう」だとか。それでいて、「赤門 真如寺」を名乗っているとはこれいかに。
通りを歩いていると、「地獄絵図」にちなんだ彫刻をあちこちに見掛ける。真如寺の「地獄絵図」に発想を得た「近江の地獄めぐり」プロジェクトの一環らしい。多賀産杉丸太を削ったチェーンソーアートを置いて、門前前商店街ににぎわいを取り戻そうという試みだ。
今年3月から年内行われるという。クルマ観光が増え、商店街をそぞろ歩きする観光客も少ない。これでは商店街の商売も上がったり。何とかしようという苦肉のプロジェクトだ。商店街も大変である。
観光するのも力仕事。腹が減っては戦にならない。絵馬通りをのんびり歩きながらブラブラしていたら、多賀大社付近に来たら、正午をすっかり過ぎていた。お腹も減っていた。
とにかく、何かお腹に入れなければならない。歩いていて、ときどき見掛けたのが多賀名物「鍋焼きうどん」の文字。なぜ、鍋焼きうどんが名物なのだろうと不思議だった。そう書いてあるなら、やはり食べるしかない。
そこで入ったお店が「不二家」。古い食堂だったが、実はこの店が村山たか女の生家だった。幕末に桜田門外で水戸浪士などの襲撃を受け、暗殺された幕府の大老・井伊直弼と彦根で出会い、開国し日本の近代化をはかろうとした直弼の影の力となった女性。
船橋聖一の小説『花の生涯』のヒロインでもある女性の生家だった。かつて交通が未発達だったころ、遠方より来る参拝者の疲れを癒すために供したのが「なべじり焼き」(なべじりは夫婦世帯のこと)。今日の「鍋焼きうどん」だという。
高宮池は樹林が一帯を覆っており、よく見えない。しかし、どうも、実にたくさんの鳥が憩っており、びっくりした。この辺りは湖東県立自然公園で、「みなさまのおかげで、この池も水鳥の楽園になりそうです」(多賀区長)の掲示板が立っていた。
それにしても、何の鳥なのか、もっと身近で見てみたい。こんな形で生息する姿は見たことがない。結構、素敵な観光資源になると思うのだが、ウェブサイトを検索しても、この水鳥は紹介されていない。もったいない。