新聞の危機

 「新聞の危機」が言われて久しい。われわれの学生時代は「新聞をきちんと読めるようになる」のが大人になることだったが、今はそんなことはない。新聞を読むなんて古典的なことをしているのはごくごく少数で、大半がテレビや携帯電話やパソコンなどでの情報収集だ。

 新聞(活字)を読むことは考えることでもある。テレビやネット情報は感覚的には反応できるが、思考にまで昇華しない。そういう媒体ではないからだ。思考する必要性を求められないと言われればそれまでだが、きちんと思考しなくなれば、人間であることを放棄するのに等しい。

 今は良くても、恐らく、将来、大変困ることになるのではないか。インターネットは玉石混交である。有害情報も多い。こどもたちの健全な成長を阻害する情報が氾濫している。このことの危険性をとりわけ日本の業者や社会は強く認識していないのだろう。むしろ、携帯万能時代を肯定的に捉えている。無邪気としか思えない。

 ネット情報の真贋、是非を判断できれば問題ない。しかし、今の中高生たちにそれがあるとは思えない。欧米ではこれほど、野放しではないようだ。将来、泣くのは無警戒で無邪気な大人になった日本のこどもたちではないか。日本の文化度も下がっていくことだろう。

 要は新聞がだらしがないということだろう。意識的、意図的に教室に新聞を持ち込まなければ新聞を読んでもらえないという状況があるということだ。兵庫県NIE推進協議会のNIE(教育に新聞を)実践発表会を聞きながら、つい考え込んでしまった。

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *

This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.