『明智光秀』

書名:『明智光秀』
著者:早乙女貢
出版社:文春文庫(単行本 1980年4月廣済堂出版刊)

 明智光秀は1582年6月2日(西暦では6月21日)、織田信長を京都・本能寺で討った逆賊と見なされ、11日後に羽柴秀吉との山崎の合戦に敗れ、あっという間に歴史の表舞台から姿を消した人物。百姓から身を起こし天下人にまで上り詰めた秀吉やその秀吉から天下を奪った徳川家康とは対等視されないのは仕方ない。

 安土桃山から江戸時代にかけて歴史の表舞台で華々しく活躍したのは信長―秀吉―家康の3人に尽きるからだ。光秀はどうしても、「あの信長を討った」という制約から逃れられない。歴史人物的には3人に劣るからだ。

 ただ、歴史は時の権力者が作るものだ。彼らが自分に都合のいいように書くからだ。歴史はそういう宿命を帯びている。ありとあらゆる資料が残される現代ではむしろ、資料が多過ぎて、評価が難しいだろうが、光秀が生きた1500年代の資料は乏しい。実際、生年すらはっきりしない。

 明智氏は美濃の土岐源氏の流れをくむ。享禄元年(1928)に生まれ、天正10年(1582)に死去したとされるが、定かではない。秀吉軍に敗れた光秀は、落ちていく小栗栖(おぐるす=現在の京都市伏見区)の竹やぶの中で落ち武者狩りの土民・中村長兵衛に竹槍で刺し殺されたというのが定説だ。

 しかし、早乙女貢氏は光秀とされた死体の顔が削がれ、身元が確認されなかったことなどを根拠に、土民に殺害されたとの説を排した。光秀は逃れて比叡山に潜り、僧となった。後に徳川家康に重用された天海僧正その人であるとの異説を小説の核に据える。

 光秀が落ち武者狩りに襲われるのは380ページの長編の真ん中辺り。なぜだろうと思っていたら、そこからが「光秀天海僧正説」の始まりだった。加えて光秀の謀臣・斎藤内蔵助利三の6女・福が徳川三代将軍・家光(幼名・竹千代君)の乳母として登場。のちに大奥を支配した春日局(かすがのつぼね)である。

 「明智光秀は当時の武将の中では学問があり、教養人だった。蜂須賀小六のような野盗あがりの大名の多い中で、かれは”ものを考える人”であった。殺戮を好み、驕慢で尊大な暴虐の信長や、顔人坊主あがり説もある素性の知れない家康や、浮浪児あがりで狡智な猿の秀吉などの中にあって、光秀のような文武両道の大名が存在したことは、非常に珍しいし、その人間像は、現代人にもっとも近いものといえるのではなかろうか。

 信長がもし現代にいたら、ヒットラーなどに比肩する異常者だが、光秀はちがう。勤勉で、学問好きで、真面目に生きようとしている。むろん武士として名誉欲も、政治的野心もあるが、歌人であり、ものの哀れを知る男だ。明智光秀の悲劇は、あるいは早く生まれすぎたことにあるのかもしれない」(早乙女貢氏あとがき)

  明智光秀に関心を持ったのは彼の丹波攻め。私の先祖・丹波大山城が亡びたのは明智光秀に責められたためだと小さいときから折に触れて母親から聞かされてきたことにもよる。郷里のことを考えるとき、光秀は常に気になる存在だった。

 特に今、明智光秀を調べるつもりはなかったが、たまたま通りがかった新宿西口イベント広場の古本市で目に入ったのがこの本。これも何かの縁かもしれない。
 

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