『蚊トンボ白鬚の冒険』

書名:『蚊トンボ白鬚の冒険』
著者:藤原伊織
出版社:講談社(初出『週刊現代』2000年9月2日号~2001年11月24日号)

 主人公の倉沢達夫は20歳の水道職人。世間的には「配管工」という呼び名のほうが通りがよいが、彼はなぜか水道職人のほうにこだわる。もちろんまだ一人立ちしているわけではなく、元やくざの親方の下で働く「手元」(てもと)。恰好よく言えば、アシスタント。

 性格的には相当屈折しているものの、仕事はきちんとこなし、親方からは信頼を得ている。父親と死別しアパートで1人暮らし。4年前の6月、駒沢陸上競技場で行われた関東高校陸上競技大会1500m決勝。ファイナル12人の1人として残った。インターハイ出場も十分圏内にあった。
 
 結果は3着、3分56秒45。しかし、ゴールを駆け抜けた彼を待っていたのは「よくやった、倉沢」と、その直後の「おまえ、顔いろ、真っ青だぞ。すぐ医務室でドクターに診てもらえ」との監督の声。数日後、受検した医師から聞かされたのが「僧帽弁閉鎖不全」。重大な心臓疾患で、彼の競技生命はこれで断たれた。

 蚊トンボが達夫の頭に”緊急避難”したのは東向島の民家で平凡な増築工事に従事したとき。敷地内の池のそばで親方と昼飯を食べているとき、1羽のカラスが急降下。突然、斬りつけるような風が彼の頬をかすめ、後頭部に異様な感覚を感じた。カラスにつつかれたのかと思い、手をやったが傷もなく血も流れていない。それ以後、痛みも熱の感覚もすっかり消えた。

 一晩寝て、布団から身体を起こし、立ちあがろうとしたそのとき、頭で羽音が鳴った。ブーン、ブーン、ブーン・・・。それに加えて、人の声が聞こえてきた。それが蚊トンボ。カラスに狙われ、とっさに達夫の頭蓋骨の中に緊急避難したという。名前は生まれた隅田川にかかる「白鬚橋」を借りて、「シラヒゲ」。それからたった3日間の達夫とシラヒゲの奇妙な同棲生活が始まる。

 ところが、シラヒゲは筋肉の専門家で、達夫の筋肉を自由に動かすことができるのだ。筋肉はアクチンとミオシンという2つのたんぱく質で形成されており、その相互作用で収縮して動く。このたんぱく質を刺激するのがカルシウムで、シラヒゲはなぜだかカルシウムイオンの濃度を瞬間的に普通の1000倍くらいに強化できる能力を持つ。つまり、達夫の筋肉を瞬間的に鉄人並みに動かせるのだ。

 アパートの隣人でデートレーダーの黒木、彼の亡くなった妻の義兄でインテリやくざの瀬川、施主の娘で業界紙記者の八木沼真紀、暗号ソフトの達人で狂人化した日系アメリカ人・カイバラなどが複雑に入り混じって、冒険が繰り広げられる。

 最後の決戦場は南千住駅そばに広がるJR貨物隅田川駅。達夫とカイバラとの間で死力を尽くした攻防戦が展開される。シラヒゲのパワーは衰弱し、命の終わりを迎えつつあった。たった3日間の命も尽きようとしていた。

虫の息のシラヒゲが言う

<でも、おいら、あんたといっしょにいて、おもしろかった>

「・・・なにがおもしろかったんだよ」

<冒険があった>

「・・・冒険? なにいってんだ。身勝手な野郎だな。おれにとっちゃ、えらいはた迷惑だったじゃねえか」

<でもさ。それだけじゃない。あんた、恋だって経験したじゃない>

達夫はふと黙りこんだ。恋か。あれがそうだったのか。そうかもしれない。よくわからない。わかるのは、その相手がいま目の前でおれをのぞきこんでいる。それだけだ。

<そうだよ>

シラヒゲがくりかえした。

<恋と冒険があった>

①白鬚橋西詰

②白鬚橋から隅田川を眺める(左手の堤の奥が隅田川駅)

③白鬚橋全景

④南千住駅そばの陸橋からJR貨物隅田川駅を眺める

⑤千住まちあるきマップ(右下が白鬚橋、真ん中が隅田川駅)

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