ムバラク・エジプト大統領の終焉

 エジプトが大変なことになっている。ムバラク大統領が1日に次期大統領選への不出馬を表明したのを受け、政権に強い影響力を持つ軍がデモ容認姿勢から秩序回復に軌道修正し始めたほか、ムバラク即時退陣を要求する野党勢力とムバラク支持派との間で大規模な衝突が起こっているようだ。

 100万人規模のデモのニュースをテレビで見ながら、昔行ったエジプト旅行のアルバムを探した。1974年3月初旬の頃だ。就職する前の個人的な”卒業旅行”で、車中泊を繰り返しながら、南欧諸国を放浪。ギリシャから飛行機に乗り、最初に途中下車したのがエジプトだった。

 6か月前に横浜から乗ったハバロフスク号の船上で第4次中東戦争(1973年10月6日-10月26日)勃発のニュースを聞いたが、その後のエジプト情勢までは関心が向かわなかった。74年3月もエジプトは依然臨戦態勢下で、カイロ空港は物々しい警戒態勢が取られていたのは現地に着いて初めて知った。

 カイロ着は夜7時頃。宿も決めていなかった。情報収集のためエアフランスの空港内事務所に行こうとしたが、鉄条網で厳しくガードされたエリアへの立ち入りを、マシンガンで武装した兵士に阻止され、押し問答。その日の泊まりを確保するため、私も必死だった。そうこうしているうちに、空港内にたむろしている群衆に取り囲まれ、正直どうなるか恐慌をきたしたことを今でも時々思い出す。

 不思議なことに何とかなるものだ。銃を突きつけられた場合、最悪の場合、撃たれることもある。無謀は禁物だ。しかし、相手はプロの軍人だった。どういう風に事態が収拾したかの記憶は残っていない。とにかく、騒ぎは収まって、群衆も去った。

 その後の展開は自分でもよく分からない。どこからともなく、英語を話すアラブ人が現われ、あれよあれよという間に市内のホテルに押し込まれてしまった。そのアラブ人がタクシー運転手兼旅行ガイドであることは翌日になって分かった。

 結果的にカイロには3泊し、イタリア人老夫婦とともに1台のタクシーに乗せられ、ギゼーのピラミッド観光までしてしまった。近代的なホテルではなく、アラブらしいところだった。ガイド料を払わされたほか、お土産物屋にも連れて行かれ、偽の宝石を買わされた(帰国後判明)。

 エジプトでは大変な目にあったが、同国には意外と悪い印象が残っていない。自業自得的な部分もあり、出たとこ勝負の性格が招いたものだからだ。でも、このおかげで、結構度胸がついた。銃を突きつけられても怖くない(ように思える)。実際は怖いはずだ。

 エジプトは世界で最も早く都市文化が栄えた国。文字や文学、法律、天文学など現代文化の基はすべてエジプト文明から発生しているのだという。実に偉大な国である。

 それにしてもムバラク大統領が大統領に就任したのはサダト大統領(1970年9月-81年10月)の暗殺された1981年10月。サダト政権の副大統領を1975年4月から務めていた。大統領30年間、副大統領6年間。独裁もいいとこだ。やはり、権力は長すぎると腐敗する。止め時もあったはずなのに、なぜそんなに長く居座ったのだろうか。

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