友の死

仕事を午前中で切り上げ、午後1時すぎののぞみ37号に乗ったとき、車窓の外は雨だった。新大阪までほとんどずっと降っていた。雲がどんよりと重くのしかかり、風景は晴れない。台風が通過中だという。私の心も晴れなかった。

 親しい友人が亡くなった。大学に入ってまもなく知り合い、その後40年以上にわたって付き合ってきた心の友だ。大切な友人を失う、喪失感の大きさを思い知った。心がつぶれ、胸を締め付ける。クラスメイトだった。1浪の私より1歳上だったので64歳。それでもまだまだ若い。

 11日午後6時18分に携帯に着信があった。仕事を終え、スポーツクラブで日課の運動を済ませ、戻ってきたロッカールームで着信を確認した。彼からだった。彼とは4月4日、私の親戚に仏事があって東京から京都経由で大阪府枚方市に行った際、用事を済ませた後、京阪電車枚方市駅(大阪府)前の居酒屋で会ったばかりだった。

 そのときに彼から「自分の大学の卒業証書には番号が付いていない。君のはどうか」と聞かれ、卒業証書などどこへ行ったかも忘れていることを思い出しながらも、「調べて教える」と答えた。私のたった3畳の書斎は3.11地震で書棚の資料が落下した惨状が完全には回復していない。

 見当をつけた場所を探したが、探し物は見つからなかった。腰を据えて見つけ出すためには書斎の全面整理に発展するので二の足を踏んでいたのが正直なところだった。

 しかし、恐らく彼の亡くなる前日の10日のある時点で、仕事をしている最中だったか、泳いでいるときだったか、どういう連想だったかどうしても思い出せないものの、彼から頼まれごとをしていることをふと思い出しているのだ。そのときは「週末には卒業証書見つけ出して、彼に連絡しなくちゃ」と自分に指示した。

 着信を見てすぐ浮かんだのはそのことだった。返事が遅いので催促の電話かもしれないと考えた。こちらから3度電話を返したものの、返信がなかった。おかしいなと思いつつも、新宿のブックファーストでWeb関係の書籍を眺め、4回目に電話した際には留守電にメッセージを残した。

 あきらめて帰宅しようと都営大江戸線新宿駅のホームで電車を待っていた午後7時57分に着信音がなった。電話に出ると、彼の子息からだった。「今朝、父がなくなりました」。前日も元気で、仕事を終えた後、高校時代の友人とサッカーを観戦し、少し飲んで帰宅。当日朝も直前まで元気だったという。動脈瘤破裂。

 4月に会った際の話題は教育問題だった。35年間、大阪府門真市で中学教師を務めた彼は、門真市の教育レベルの向上について、熱心に語った。特に低所得者家庭児童対策の必要性を力説していた。「教育を受ける機会は平等だ。子どもには責任がない」と熱を込めて語った言葉を私は自分のメモに残している。

 彼とは大学時代の5年間を共有した。1970年安保時代と呼ばれる、あの時代の雰囲気を共有した。何が何だかよく分からない時代だった。みんなが手探りで、それでも必死に生きようとしていた。フラフラ、ウロウロ、キョロキョロしながら、取り組んでいたはずだ。

 そんな時代に、いつも彼が近くにいたように思う。機動隊に靴音におびえながら学生街をさまよい、三島由紀夫の割腹自殺のニュースを知ったときも彼はそばにいた。金のない貧乏学生だから、議論するのはもっぱらお互いの下宿だった。本の山に埋もれながら、よく議論した。

 そのときのことが40年以上の時間を一瞬のうちに飛び越えて次から次へと浮かんでくる。意識下にずっと潜んでいたことが、彼がいなくなったことを契機に、丸で雲霞のごとく意識の上に立ち上ってくるのだ。これはどう説明したらよいのだろう。人間の心の複雑なメカニズムだとしか言えない。

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