友の書庫

 彼は読書家だった。その証拠がこの書庫だ。彼の思索過程の一端をどうしても知りたくて、遺族にお願いして故人の自宅を訪ねた。最寄駅の京阪・大和田駅に着いたのは午後6時30分をすぎ、夕闇が迫ろうとしていた。お葬式も済んで、彼も帰宅していた。仏壇の前の写真の中で笑っていた。

 彼が読書家だとは知っていた。しかし、自宅に書庫まで作っていたとは知らなかった。話を聞いていたかもしれないが、覚えていない。本は重い。棚も作り付けだし、床が抜けるので補強工事が施されているという。床から天井までの書棚にはぎっしりと本が詰まっていた。

 ざっと見で5000冊くらいかなと思ったが、棚の奥にも三段くらいにわたって詰め込まれており、息子さんが言うように1万冊はあるかもしれない。悔しいが、数では負ける。丹波の書斎には作り付けの書棚を作ったものの、書庫を作るには至っていない。これも彼に負けた。自慢の書庫だったようだ。

 言い訳を許してもらえば、「おれは学生を終える際、海外旅行に出る資金の足しにしようと蔵書を古本屋に売った。それも2回にわたって。2000冊はあった。それが今も悔やまれる」

 私が読んだ本と同じ本が何冊も書棚に並んでいた。自分が読んで良かったと思った本はどうしても友人にも「読め」と薦めたくなるのが愛書家の習癖だ。あるいは会って話をしていて、自分の知らない本を読んでいることが分かると、帰ってすぐに読むこともあった。

 競争しているわけではないが、相手が読んでいて、自分が読んでいないことは、どうも許せないようなことがあるのだ。学生時代はそういうことが多かった。友達から知的刺激を受けた。司馬遼太郎の『峠』や森有正の『バビロンの流れのほとりにて』があった。

 びっくりしたのは梅田望夫氏の『ウェブ進化論』や『ウェブ時代の5つの定理』など、ウェブ論壇の先駆者の本が何冊もあったこと。最近は日本古代史に傾斜していたらしいが、ウェブ世界にも関心を持っていたのを知って、ちょっと意外に思った。

 読んでいて、気になった個所には線が引かれていた。私も同じ読み方をしている。懐かしい大学生協のブックカバーをしたままの本も並んでいた。私が初めて本を出版したときに、大阪駅近くの紀伊国屋書店で買ってもらった本も収蔵されていた。そのときの光景が時空を飛び越えて眼前に甦る。

 彼は教師時代にも生徒たちに「本を読め」と結構言っていたらしい。初めてクラスを担任した昭和53年(1978)4月にはガリ版刷りの「がんばろう新聞」を発行。手書きの文章が奇跡的に残されていた。中学生にどれだけ彼の思いが通じたかは分からない。しかし、「伝わるものもある」と信じたい。

 気づいたら、彼の自宅には2時間も滞在していた。夜も8時をとっくに回っていた。名残は尽きない。

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