髙橋是清翁記念公園

髙橋是清翁

誘われた勉強会に出るべく青山1丁目から赤坂見附のほうに歩いていると、カナダ大使館を過ぎたところが小さな公園になっていた。大使館員とおぼしき数人がたばこを吸いながら談笑しているのを見て、肩身の狭い思いをしている愛煙家は別に日本人だけではないことに多少の感慨を抱きつつ、公園の名前を確認すると何と「髙橋是清翁記念公園」(東京都港区管理)。

髙橋是清元首相・蔵相(1854年9月19日-1936年2月26日)の名前はデフレ脱却との絡みで最近よく名前を聞く。積極的な財政出動でデフレ脱却を見事にやり遂げたものの、軍事予算の削減を怒った軍部青年将校が引き起こした2.26事件で暗殺された。83歳。公園は翁が住んでいた邸宅跡で、邸宅そのものは都立小金井公園内の「江戸東京たてもの園」に移築され、日本庭園と石灯篭、石人像、石橋などが残っている程度。カナダ大使館も元は髙橋邸の一部だったという。

公園の一番奥まったところにあるのがこの銅像だ。戦前にもあったらしいが、戦時中に撤去され、現在の銅像は戦後の1955年(昭和30)に再建されたものだという。

髙橋是清が平成の今になって注目を集めるのは、昭和初期に日本経済をデフレから見事に脱出させた人物だからだ。日本経済は1927年(昭和2)の昭和金融恐慌で低迷していたところに1929年には世界大恐慌が起き、その余波で昭和恐慌に追い込まれた。同年発足した浜口幸雄内閣の浜口首相・井上準之助蔵相コンビはデフレ下にもかかわらず緊縮財政政策を強行した結果、どん底状態に陥った。

それを救ったのが1931年12月に発足した犬養毅内閣で4度目の蔵相に就任した髙橋是清。彼は浜口・井上コンビの実施した「金輸出の解禁」の撤回、平価切り下げ、積極財政(国債の日銀引き受け)を断行した。これが成功し、列強各国が恐慌の真っただ中にあるにもかかわらず、日本だけが脱出した。積極財政を提唱したケインズの一般理論が世の中に出たのは1936年。髙橋是清はその5年前に既にケインズ理論を実践したのだから面白い。

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