『聯合艦隊司令長官 山本五十六』

作品パンフ

 

作品:『聯合艦隊司令長官 山本五十六―太平洋戦争70年目の真実―』
監督:成島出
キャスト:役所広司(山本五十六)
観賞シアター:新宿バルト9

新宿バルト9のシアター4。週末金曜夜7時開映だったとはいえ、テーマが重いから入りはそんなでもないだろうと思っていたら、さにはからんや、超満員とは言えないまでも、座席は8割型埋まっていた。しかも、結構若い人が多い。

五十六を演じた役所広司がインタビューで、「僕も戦争を知らないんですけど」と断りながら、「どうして戦争が起きてしまったのかを、この映画を通して、若い人たちも戦争を体験した方々も、皆でもう一度、考えていただけたら本望です」と語った通りになっていた。「軍部の暴走」という浅い理解を深めなければならない。

山本五十六の名前は多くの日本人にとって非常に身近な存在だ。1941年12月8日にハワイ真珠湾停泊中の米太平洋艦隊を急襲攻撃した日本海軍聯合艦隊を指揮した人物として記憶されているからだ。

しかし、日米開戦を仕掛けた人物が「誰よりも強く開戦に反対していた」ことは知らなかった。知ろうとしなかった。戦後何十年も経って、ようやく日本政府内部や軍部の一部にも「対米開戦反対派」がいたことが明らかになってきたものの、五十六が自ら開戦の火蓋を切る奇襲攻撃を仕掛けた真意は「戦争を早期に終わらせ、米国との講和に持ち込むためだった」とは知らなかった。

原作は半藤一利氏の『聯合艦隊司令長官 山本五十六』(文芸春秋社)。同氏は映画の監修も務めている。本を読んでいないので、原作と映画がどう違うか分からないが、映画としてのフィクションも入っている。人間五十六が描かれていなければ、映画作品としては恐らく面白くないだろう。小説と同じだ。

五十六が新潟県長岡市出身で、半藤氏は県立長岡中学(現長岡高校)の後輩であることを知って、氷解するものを感じた。長岡市は五十六よりも先に、戊辰戦争を戦った越後長岡藩軍事総督・河井継之助を生んだ。彼の片腕だった大隊長・山本帯刀は、長岡藩の儒官の家柄だった高野家の六男として生まれた五十六が両親を亡くした後、養子として入った山本家の亡くなった当主だった。生き方の壮烈さは河井継之助・山本帯刀の流れを引き継いでいるとつい考えたくなるのは行き過ぎか。

五十六が生きた時代は日本がまっしぐらに戦争に向かっていく時代だった。1929年10月24日の世界恐慌がその引き金にあった。満州事変勃発(31年9月18日)、5.51事件(32年5月15日)、国際連盟脱退(33年3月27日)、2.26事件(36年2月26日)、支那事変勃発(37年7月7日)、独ソ不可侵条約締結(39年8月23日)、ドイツ軍によるポーランド侵攻開始(39年9月1日)、日独伊三国軍事同盟締結(40年9月27日)、日本軍による南部仏印進駐(41年7月28日)、そして真珠湾攻撃(41年12月8日)。

36年12月1日に海軍次官に就任した五十六は、日独伊三国軍事同盟締結を求める圧倒的な世論に対して、米内光政海軍大臣、井上成美軍務局長とともに強硬に異を唱えた。一時的に奏功したかのように思えたが、最終的に押し切られた。

世論の抗して持論を主張するというのは大変な勇気と力と必要とする。その世論を作り上げるのが当時は新聞だった。東京日報主幹・宗像景清が節目節目で五十六に面談し、軍事同盟締結の必要性、対米主戦論を主張するものの、それに対して、にこやかな笑みを絶やさないで宗像を諌めるのが五十六だった。

五十六は、宗像が憤然と席を立った後に取り残された若い真藤利一東京日報記者に対し、優しく語りかけるセリフが実に印象的だった。これを聴いただけで、この映画を観た価値があったと思った。「真藤君、自分の目で、耳で、大きな心で、世界を見なさい」。

 

 

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