日本新聞列島

日本新聞協会加盟社の題字で作った「日本新聞列島」地図

 

我ながら新聞を読まなくなった。現役時代は新聞を読むことが仕事だったが、第一線を退くと、その必要性が薄れたのが最大の理由だ。新聞が何をどう書いているかを大きな関心を持ってきたのは通信社にとって新聞社やテレビ局が重要なお客さんだったからだ。新聞社やテレビ局にニュースを売ってきた。

報道の最前線で飯を食ってきた人間としては新聞を読むのが飯のタネだった。どの業界の人間でも顧客のニーズ把握は最も重要なことだ。ニーズをつかんでいないと業務が成り立たない。朝の通勤途中でも新聞を読んだ。ペンを握りしめながらしっかり読んだ。帰宅してからはスクラップもした。今も新聞を読んではいるが、読む時間は圧倒的に減った。スクラップは今も続けているが、昔ほど熱心ではなくなった。

新聞を読まなくなったからと言って、活字を読まなくなったのではない。ウェブサイトの活字はいっぱい読むし、携帯電話やパソコンのメールは日常的に読んでいる。むしろ読んでいる量は昔より確実に増えている。減ったのは紙に書かれた活字だろう。ただ、こと本に限っては電子書籍よりも印刷書籍の方が性に合っているし、赤ペンを入れつつ紙面を汚しながら読む習慣が付いているので、タブレット端末を買ってまで電子書籍を読もうとはいまは思わない。

人間は情報を食べて生きている。情報なしでは生きていけない。高度に情報化した現代に生きている人間の宿命だ。地球の裏側で起きたことでさえ、グローバル化・ネットワーク化の発達で、一瞬のうちにこちら側に伝わる。世界は事実上リアルタイムでつながっている。

問題はリアルタイムでつながり、激しく動く現代世界の今を的確かつ正確に切り取り、われわれが取るべき行動を考える上で有効的なヒントを新聞やテレビが提供できなくなっていることではないか。日本の今のメディア状況を見る限り、そうとしか思えない。とりわけバラエティー主体の民放の放送内容は目に余る。「下流の下落」と批判されても仕方あるまい。新聞も独りよがりな言説ばかりが横行している。こちらは読むに堪えない。

要は新聞やテレビよりも、他にもっと読むに値するコンテンツがたくさんあるということだ。ウェブの発達で、これまで日の目を見る機会のなかった情報・言説が雪崩を打って発信され始めたからだ。玉石混交だが、少ないながら、その中には新聞・テレビ情報など足元にも及ばない良質な情報もあるし、自分のニーズにぴったり合った、自分の本当に欲しいコンテンツに出会えることもある。

マスメディアのように一方的で大上段に振りかぶることなく、謙虚で控えめな言説に遭遇すると、嬉しくなる。探すのが大変だし、チャンスはそんなに多くないのが現実だが、探せば、必ずや巡り合える。そういう情報や言説が確実に存在している。そんな情報に出会える喜びを一度知れば、マスメディア情報の有難さは薄れて当然だ。

新聞やテレビから情報を与えられるのではなく、自分から自分に合った情報を主体的に取りに行く。そうして獲得した情報を取捨・分析・判断し、自らの行動を決めていく。そういう時代だ。自分で判断して取った行動には文句を言えない。自分が責任を負うだけだ。はっきりしていて気持ちがいいではないか。

「アメリカでは2008年、多くの新聞が倒れ、多くの街から伝統ある地方紙が消え、『新聞消滅元年』となった。いままでそうだったように、アメリカのメディア業界で起きたことはつねに3年後に日本でも起きる」(佐々木俊尚著『2011年新聞・テレビ消滅』文春新書)。アメリカで存在感を強めているのはハフィントン・ポストなどのインターネット新聞だ。

 

 

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