『貂の皮』

司馬遼太郎短編全集所載(初出「小説新潮」1969年6月号)

司馬遼太郎短編全集所載(初出「小説新潮」1969年6月号)

 

書名:『貂の皮』(司馬遼太郎短編全集12所収)
著者:司馬遼太郎
出版社:文藝春秋社

司馬遼太郎は長編作家だと思っていたら、短編もたくさん書いていた。文藝春秋から短編全集全12巻が刊行され、156篇もの短編が収められている。日比谷図書文化館から借りてきて、その中から『貂の皮』を読んだ。

たまたま自分の郷里である兵庫・丹波で発行されている「丹波新聞」を国会図書館で読んでいて、荻野直正(赤井直正、通称”悪右衛門”)という織豊時代の武将に絡んだ本作品のことを知って読んでみたくなった。

赤井直正(1529-1578)は享禄2年生まれ。丹波はさほど高くはない低山に囲まれた山国。山間の小盆地にはかならず1豪族が住み、山にはかならず砦がある地域だったが、その丹波豪族の中での最大の存在が船井郡(京都府)、氷上郡(兵庫県)などに幾つかの城塞を持つ赤井直正だった。

外舅(がいきゅう、妻の父=岳父)の荻野秋清を殺し、天文23年、丹波・黒井城(兵庫県丹波市)の城主となり、自らを悪右衛門(あくえもん)と称した。織田信長(明智光秀)の丹波制圧に抵抗し、軍学書『甲陽軍鑑』には名高い武士として徳川家康、長宗我部元親などとともに名前が上げられている。

黒井城には小学校の遠足で行ったことがある。何もない小高い丘までかなり歩いたことを覚えている。城壁は残っておらず、頂上は広い野っ原だった。何人かと先に行って、付き添いの教師に「団体行動を乱した」としてこっぴどく叱られ、1時間ほど立たされた。みんなが弁当を食べているのを横目で見ているのが辛かった。こんな体験があるので、黒井城と聞けば反射的に当時の光景が浮かび上がってくる。

「貂の皮」は赤井家の家宝。足利尊氏の時代に、同家当主が丹波・大江山で狩りをした際、洞窟から飛び出してきた奇獣「貂」(てん、イタチ科)の雌雄を殺したのち、霊獣かもしれないとして首塚を作って祀り、その皮を袋にして太刀を納めたところ、奇瑞(きずい=吉兆)が起こった。そこで赤井家では武運の守り神として、貂の皮を戦場に出る際の指物にした。

明智光秀が黒井城攻めに手こずっていたときに、単身城に乗り込んで悪右衛門に投降を迫ったのが近江生まれの脇坂安治(甚内)。光秀の下に身を寄せ、合戦のときだけ戦場に現れて手柄を立てる野伏(のぶせり)から身を起こしたのち、家来ではないものの、より待遇の良い秀吉の親衛隊を構成する「床几まわり」の少年となった。加藤清正、福島正則、石田三成らもそうだ。

光秀の丹波攻めが長引いていることに業を煮やした信長は丹波の隣の播州作戦を展開していた秀吉に使いをやり、播州の側から丹波の側面を突く作戦を命じてきた。播州平定に忙殺され、ゆとりのなかった秀吉は甚内に300人ほどの人数を付けて丹波に送った。甚内の初陣だった。

甚内は大胆にも単身黒井城に乗り込み、悪右衛門と談判。「丹波の赤鬼」と恐れられながら、死期を悟っていた悪右衛門の懐に飛び込み、降伏開城を説いた。悪右衛門は降伏しなかったものの、赤井家の血を残すため、悪右衛門の殺した兄・家清の子・忠家の命を助けることを甚内に保証され、事実上軍門に降った。

そのとき、悪右衛門が礼として差し出したのが家宝の貂の皮の指物だった。「この貂の皮が落城の火で灰になるのはなんとしても惜しい、惜しいがゆえにゆずる、甚内もこの貂によって武運が憑くにちがいない、と悪右衛門はいう」(『貂の皮』)。これがきっかけで貂の皮は甚内の手元に渡った。

そのせいか、甚内はその後、「賤ケ岳の7本槍」の1人に入るなどとんとん拍子に出世した。淡路・洲本城主(3万石)になったほか、関ヶ原の戦いでは東軍に寝返り、江戸時代には伊予・大洲初代城主(5万3500石)にまで登り詰めた。貂の皮の御利益は確かにあったようだ。

 

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